春の宵
「急用があるんです」
深刻な調子の電話で、鵺野は童守病院へと呼び出された。
前例があるので大慌てで駆けつけてみると、着いた途端、有無も言わさずに車に押し込められて、何処へとも告げられぬまま走り出した。
「一体、どこへ行くつもりだ?」
詰問してみても、玉藻は笑み一つなくそっけない口調で「着けば判りますから」とくり返すのみ。
飛び降りてやろうかとも思ったが、ロックは運転席側で制御されている。
仕方なくシートベルトをして、助手席で腕を組み、双方むっつりしたままのちょっと奇妙な夜のドライブとなった。
「着きましたよ」
いつの間にか眠ってしまった鵺野の肩を、玉藻はそっと揺すって起こす。
「……どこだ?ここ…」
「さあ、降りて…」
促されて車から降りた途端、目の前の光景に鵺野はあっけにとられてしまった。
「……これ……」
「お見せしたかったんですよ。どうしてもあなたに、一番に」
そこは一面に広がる梅林だった。
今まさに開かんとしている梅の花、はな。
暗闇ににじみ出るように、白や薄い紅や、幹のように濃い赤や。
桜の花とはまた違った風情に、鵺野は言葉をなくした。
かわりに吐きだした息が白く広がる。
もっとよく見ようと足を踏み出すごとに、くらやみに明かりがともる。
玉藻が狐火を使って、足元と花を照らしてくれているのだった。
いつもの花見の時にありがちな電飾の光とは違ったやわらかさとあやしさに、ただ寒さも忘れて見上げた。
「きれいだな……梅の花見なんて、初めてだ……」
「最近は桜ばかりがもてはやされますが、ちょっと昔は花といえば梅だったんですよね」
「へぇ」
ゆっくりとその場で一回りして景色を楽しみ、玉藻の言葉に相づちを打つ。
今し方までの不機嫌もどこへやらといった素直な賞賛の態度に、玉藻も心なしか安らいだ表情で応じる。
「気に入りました?」
「まあな」
「よかった……怒らせてしまったみたいだから、すこし心配していたんですよ」
「そりゃ、あんなやり方されたら怒りもするだろ?イキナリでさ…。けど何も騙したみたいに連れてくることはなかったんじゃないか?ちゃんと言ってくれればさ」
「言えば、受けてくれましたか?私の誘い。――多分、断られると踏んだのですが」
「……」
そうかもしれない、と言われて考えた。
毛嫌いしている訳でもないのだけど、さしたる仲でもない玉藻から『花見行きましょう』なんて言われて、素直にOKしたとは思えない。
必要以上に勘ぐって、警戒して断っていたに違いない。
でも、とそこで思う。
ひょっとしたら、OKしたかもしれないじゃないか?
言ってくれれば、もしかして。
「こちらにきて座りませんか」
声の方を見ると、いつのまにか座がしつらえてあった。
野点の席のように、赤い敷布。
かがり火にはやはり狐火を使っているのが玉藻(こいつ)らしいというか。
傍らには蒔絵や螺鈿細工の箱があり、そこから酒器のひとそろいを出している。
「それ、酒か?お前も飲むのか?」
酒瓶らしきものを見つけ、眉を寄せる。
「そうですが、何か?」
「飲酒運転はだめだぞ」
「私を誰だと思っているんですか。人間の酒の一升や二升」
さらりと言うと、鵺野へ座に着くよう促す。
「…おまえ、本当は狐じゃなくって、蛇だったんだ」
いつもならば厳しく咎めるところだが、花見の席では無粋極まりないと思い、ただそうからかうだけにとどめた。
それに口ではこんなことを言っていても、ちゃんと帰り際には眷属が現れて代わりに運転をするのだ。
「先生もなかなかどうして、いけるクチでしょう?」
朱の杯を持たせ、白いつややかな陶の角瓶から、これまた白く濁った酒を注ぐ。
「お前ほどじゃないがな」
お子さま用に作られた甘いだけの白酒とは違い、さすがにアルコールは高そうだ。独特の匂いを確かめてから、一口含む。
飲み慣れてない種類ではあったが、それはすばらしく美味だった。
「うまい。珍しいな、白酒なんて」
「一応、行事はおさえておこうかと思いましてね」
「行事?」
「今日は桃の節句ですよ」
「阿呆。そりゃ、女の子の行事だ」
ねっとりと甘い酒はやはり相当の度数があるのか、一杯干しただけで少々ろれつがあやしくなっていた。
「だいたい、すきっぱらってゆーのが、いかん」
独り言にしては大きな声で言うと、待ってましたと言わんばかりに重箱が現れた。
おお、いつの間に。
こいつの眷属も大変だなと思うが、出されたものには文句を言わない主義なので、いそいそと座り直す。
手渡された塗り箸で、さっそくお重の中身をつついた。
ふっくらとした錦糸卵が贅沢な五目散らしに、春野菜の炊き合わせや菜の花のおひたし。
女の子の行事だろうがなんだろうが、うまいものが食べられれば文句はない。
「おひな様ってったら、あれがないとな。あられとか」
「女の子の行事だと言った割には、好き放題いいますね。少し注文が多いですよ」
――次は五段飾りのお雛様を、なんて言いはしないでしょうね。
笑みを含んでそういった次の瞬間には、すでに彼の手にはあられを盛った三方があった。
本当に、この狐は段取りがいい。――なんて感心していると、
「そりゃあね」
自分も伊達巻きを食べながら、玉藻は言う。
「気になる人の好みは、考えたつもりですし」
「ほんとーかぁ?」
あられをつまんで、また杯を傾ける。すでに空だったので酒瓶を持ち上げるが、素早く取り上げられる。
「ちゃんと相手がいるのに、手酌なんてお行儀悪いですよ」
「いいだろ?どうせ俺達だけだ」
ついで貰った酒を干し、玉藻にも返杯をさせ。
そんなことをくり返しているうちに、当然かなりの酔いになっていた。
飲むのも食べるのもあらかた済んでしまっていたが、それでも未練のように杯をなめていた。
「先生」
「あん?」
ふいに、思い出したかのように、玉藻が声を掛ける。
「今日は本当に、ありがとうございました。おかげで…いい思い出になりました」
「なんだよ、それ。永の別れみたいなこと言って」
「いえ、ただ何となく思っただけです」
「……なんか、俺に言いたいことあるんじゃないのか?他に」
「……鈍い人と思ってましたけど、意外と鋭いんですね」
「意外は余計だ。」
「余計ついで…私の願い、聞いてくれますか?」
身を乗り出して、玉藻が囁く。
なにが、と声にしたつもりがならなかった。
いつもと違った…冗談をよそおった深刻なものに、気が付いてしまって。
ただくちびるの動きで、相手には伝わった。
「……忘れないで下さいね、わたしのこと。この先…どんな事があっても」
たとえ、どんなことになっても。あなたが生きている限り。
「…忘れるわけ、ないよ。お前みたいなヘンテコな妖狐」
「ありがとうございます」
この夜は、これ以上なにもなく夜が過ぎた。
鵺野がこの時の玉藻の言葉を思い出すのは、いま少し先のことになる――。
了