ミーミルの契約
和也が幼い頃はそうでもなかったはずだが、いつの頃からか、周囲からはすっかり物語みたいなものは排除されるようになった。
それは母の死を境にしていたかもしれない。
どんなに祈ったって、時間が巻き戻ることはないし、死んだ者が生き還ることもない。搾取される人のために突如ヒーローが現れることもなければ、ある日突然億万長者になったりもしないのだ。
だから、嘘ばかりで出来た物語を和也の父親は好まない。
いつかきっと誰かが自分の前に現れて、燻った現状をがらりと変えてくれるだなんてことがあるわけがないのだから。
そんな教育方針へと転換が遂げられてから、和也は厭世的に成長した。
もっと幼い頃に夢中になったヒーローはもちろん、心躍るライダーも、手に汗握る戦隊も、面白かったお笑い番組も、下らんの一言で片づけられてしまえば、わざわざ熱中する気にもなれない。
とりあえず、世間の流れを知ることも必要だから、と、義務のように流し見るテレビは、これっぽっちだって面白くなかった。
それでも一応、流行り物は押さえておかねばと、基礎教養的にある程度の知識は入れておく。
その中でもっとも和也が理解しがたいのは、恋物語だ。
物語のきっかけにしても、続くエピソードにしても、不合理・理不尽の連続。
ろくに話も聞かずに罵倒してきた女に恋心を抱くなど、この男は嗜虐思考でもあるのか、と、いささか薄気味悪く見えてくる。病人の寒空の下に引っ張り出して思い出話をする輩だってそうだ。自分を思いやらない相手に、一時的な衝動で追従するなど不幸になりたいとしか思えない。
それなのに、世間の奴らは『感動しました』とか『ヤバい、めっちゃ泣いた』とか『こんなに人って人を愛せるんだと思いました』とか、どこかで聞いたような言葉を並べてほめちぎる。
ありえねえ、と和也は思う。
恋をすれば美しくて、人が死ねば感動するのか。
それでも話題に上るのは恋物語が多い。
いくつもいくつもくだらない恋物語を見る度に、ふと自分ならどうするか、と考えた。
自分だったら、こんな風に病人にわがままは言わせない。きちんと医者に掛からせて、病気を治させて、それから……。
気にかかった点を自分なりに修正し、箇条書きに文章にしてみる。
変更した筋書きに沿って辻褄を合わせ、間を補足して埋めていく。
なんだかそれは案外と悪くない物語に収まった気がした。
意外に才能あるんじゃないの、何て自画自賛して、でもすでに出来上がった作品を弄繰り回すのも芸がない気がして、今度は設定から考えてみた。
例えば主人公は天才的な少年。何をやらせてもそつなくこなすが、世間の評価は兄の方が高くて、でも努力家の弟はふとしたきっかけで兄よりもずっと優れていたことを世間に知らしめるのだ。
自分で設定を考えるのは、恋物語をひねくり回す何倍も楽しかった。
この文章を作る、というひそかな楽しみを得てから、和也は自身がプロデュースするゲームの傍ら、新鮮な驚きを受ける度、どうやってそれを表現しようかを考えるようになった。
適切な文章を思いつくと、それを誰かに読ませたくなった。
他人に読ませるなら、小説の態を取るのが良いに違いない。
思いついた文章を最初からおしりまで書き上げて、自分で読み返すと、ふとその物語がどこかで読んだことがあるもののような気がした。
多分、頭で考えた話だから、いつか読んだ、見た、知った物語にしてしまったのだ。
自分が書くにふさわしい小説であるならば、もっとオリジナリティに溢れた小説でなければならぬ。
ならば題材は、自分の経験から取るのが良いのではないだろうか。
でも和也は、恋なんてしたことがない。
恋の経験もないのにどうしようかと思い悩んでいる時に出会ったのが亜理沙だ。
亜理沙に恋をしている間は、小説のことなんてすっかり忘れた。
あれを貢ぎ、これをやりとして、結局亜理沙に逃げられた時、和也は思ってしまった。
……これを題材に小説を書こう。
己の血肉を糧にした文章は、するすると糸を紡ぐように出てきた。ところどころで引っかかりはしたものの、読み返してもこんな物語は他にはないのではないかと思われた。
自分が紡いだこの物語は、誰かに届くのだろうか。
誰かに読ませたいと思った。だけど批判には耐えられないとも思ったから、和也につけられた黒服の本をよく読む奴に読ませてみた。
そいつは感動に打ち震え、手放しで褒め称えて、出版をすべきだと言いだした。
世辞だろうとは思ったが、それでも嬉しかったし、そいつが連れてきた編集者とやらに褒められたのは胸が熱くなった。
親とは関係なく、自分の力で生み出したものを、他人に認めてもらえた……!
その喜びは何にもまして強く、また、自分の理解者を得られたことは、何よりも心強かった。
ようやく、生まれて初めて地に足をつけて立てた気がした。
特に褒められたのは、残忍な描写だ。
ならば、そこにある真実を自分は描こう。
そのためには、断末魔を上げる人々に徹底的に取材をしよう。
和也は和也プロデュースのゲームの際、参加者たちにインタビューを繰り返す。
けれどなかなか二作目を書き出すことはできない。
何故だか自分の物語が始まらない。
そろそろ二作目を、と編集者からはせっつかれている。
もう取材は十分なはずなのに、あの糸を紡ぐような感覚が訪れないのだ。
かつて、北欧神話において、知恵を求めたオーディンがミーミルの泉を訪れた際、代償には己の目を抉りださねばならなかった。
紡ぎたいのは、自分の物語。
ならば、差し出す代償は……?