溢れる鼻血
たらり、と、急に目の前の人物の鼻から、真赤な液体が流れれば、誰だって吃驚するものだと思う。
お風呂から出てきた太子は、下にジャージを穿き、上半身は裸で、首にタオルを巻いたままの姿で、ミネラルウォーターを飲みながら、急に鼻血を噴き出した。
「嫌ッ!え、太子、何ですか、どうしたんですか!?」
「どうしたって何が?ってあれ鼻水が……」
そう言いながら、何とは無しに鼻の下を触った。そして、その血だらけの人差し指を見て数秒固まった後、太子は絶叫した。
「ヌォオオオオ!?」
「ちょ、落ち付いてくださいよ、太子!」
「だってこれおまちょ!血、血ィ!?死ぬよ、これは死ぬって、間違い無く死ぬ!」
「鼻血で人は死にません!」
太子が動くたびに周りに血が飛び、床が僕の家の床が!と叫びたくなる。これ以上近くに寄られたら、見ていた書類に被害が及ぶ、と、僕は巻物を抱え込み、取りあえず太子を突き飛ばした。
「血を流している上司に向かってお前。平手ならまだしも、グーってお前……」
鼻血を出した鼻の穴に、先を捻じったティッシュを詰め込んで、という情けない姿で横になりながら、太子はぶつくさ僕に文句を言っている。
「血って、鼻血じゃないですか。それに、殴ったわけじゃないでしょう、突き飛ばしただけです。グーで」
「グーであること自体が既に問題ではないのか!」
「あ、ちょっ、興奮しないでくださいよ!血の勢いが強くなっちゃいますよ」
僕の言葉に、それはマズイと気づいたのか、「ちくしょう、妹子のくせに」と聞き捨てならない台詞を残し、太子は目をつむった。片方をふさがれてしまった鼻の穴から、「すぴー、すぴー」と、力が抜けるような音が鳴っている。
「しかし、良い大人になっても鼻血を出すって何なんですか」
「何なんですか、って何なんですか。知らないよ、私のほうが聞きたいよ、鼻から血が出るんだから、鼻の中の血管が切れてるんだろ」
「ちげぇよ。なんか変なことでも考えてたんじゃないですか」
「変なことってお前私を何だと思って……」
まぁ僕にでも、人の家のお風呂で変なことを考えるような変態ではないことは分かっていたから、多分お風呂で軽くのぼせて、血管が切れやすくなっていたのだろうと適当にあたりをつけて、太子の額に冷水で絞ったタオルを載せた。
「ひゃっこい!何すんだ馬鹿!」
「馬鹿って何だこの馬鹿。たぶん、のぼせてるんですよ。お風呂から出たとき、くらっとかしませんでした?」
「えー……どうだったかなぁ?覚えてない」
あんたのことだろうと、呆れた。仕方ないから、団扇で太子のほうに風を送る。ふわふわと髪の毛が揺れて、「おおー気持ちいー」と太子が言った。タオルの下に隠れて目もとはあまり見えないが、情けない鼻としまりのない口元はみえるので、彼が笑っているのは分かる。そのにやついた顔はいったい何なんだ、と思うが「ありがとな、妹子!」と太子が言うので、殴ることも出来ない。
自宅の風呂が壊れたというので、お風呂を貸してあげただけなのに、なんでこのオッサンは面倒なことを引き起こすのか。そして、そのどうしようもないオッサンに振り回されている僕も一体何なんだ、と、僕は太子にわかるようにと、ため息をひとつはいてみた。
すぴー、すぴー、という変な鼻息が、もうすでに寝息に代わっていることに気づいたのは、その数秒あとのことだった。