青空にとけたもの
焦げた臭いが風にのって流れてくる。
まるで、あの夜の焔と幻を忘れるなといわんばかりに鼻の奥を刺激してくる。
「…まだ残っているのか」
一ノ瀬怜二はそっと鼻元に触れて呟いた。
警察署を出て街の外れへと続く大通りを歩き始めた。
この場所に来た時は太陽は薄暗い雲に隠れ肌寒い日々だったのに、今日に限って雲ひとつない快晴だった。
腕時計に目をやると針は10時を少し過ぎていた。
ここに向かうまでは何かに引き寄せられる様な感覚だった。
今は来た時とはまるで別の道の様に感じた。どこでもいいから、この嫌な記憶を思い出さない所に行きたかった。
そんな事を思いつつ、肩からズレ落ちたショルダーバックを担ぎ直して歩き始める。
道にそって並んでいた建物から木々へと変わり、真っすぐな道は青く広がる空へと続いていた。
少し汗ばんだ身体を風がまた抜けていった。
合成麻薬「FIRE LIGHT」
幻覚を見せるこの麻薬は燃焼してその煙を吸引する事が一番効果的な為、その形状はマッチの形状に似せて作られていた。
引き起こすその幻覚とは「自分が見たい幻」
4年前におこった大火災と同じく、あの夜の火災はこのFIRE LIGHTが火種となり焔が建物を覆い尽くしていった。焔と充満していく煙を思い出すと一ノ瀬は苦々しく奥歯を噛み締めた。
その時、後ろから一ノ瀬の名を呼ぶ声が聞こえた。
「一ノ瀬さーーーーん!!」
振り返ると誰かが凄い勢いで迫ってきた。
段々と姿が見えてきた。見覚えのある黒色のパンツスーツに後ろにまとめた髪、
警察官の久川葵だった。
「何も言わずに帰るなんて酷いじゃないですか!」
久川は息を整えようと両膝に手を置いて前屈みなりながら、恨む様に言葉をだした。それに連動する様にまとめた髪が大きく揺れていた。
「別に何も言う事はなかったからな」
一ノ瀬は淡々と言葉を吐いた。
「ひっどーい!一ノ瀬さんはもう少し人を思いやる方がいいと思いますよ!」
汗だくの顔を上げて久川は言った。
「思いやる……か」
一ノ瀬は小さく俯いた。
「それで、どうしてそんなに走ってきたんだ?」
「どうしてですって!?一ノ瀬さんは前科がありますからね!」
大きく胸をはって久川は一ノ瀬を指差した。
「前科?」
「そうです!もしかしてまだFIRE LIGHTを持っているんじゃないですか!?
岩田さんも1つ隠し持っていました!」
「…これの事か?」
道の脇に積んであった瓦礫に腰を下ろしながら、コートの内ポケットからマッチ箱を1つ取り出して見せた。
「あーーーー!やっぱり持ってた!渡して下さい!」
久川は右手を広げて目の前に出した。
「使わないって言って、一ノ瀬さん、使いましたよね?だから前科があるんです!」
「必要ないよ、これは」
掌(てのひら)に載せていたマッチ箱を強く握り潰した。
「もう見えなかったんだ」
「見えなかった…?FIRE LIGHT、使ったのですか!?」
返事の無い一ノ瀬を久川は両目を大きく開いて見つめた。
「だからビデオのデータコピーの時、外で待っていたのですか!?やっぱり前科があるから…」
俯き、力を込めて握りしめる手から全身へと震えが伝わっている姿を見て、久川は言葉を続けられなかった。
「FIRE LIGHTは見たい幻を見せる麻薬。それが見れないって事はもう見たいと思ってないのか?いつの間にそんな風になっていたんだ!?」
時が止まっているかの様に木々は静かにたたずんでいる中で、一ノ瀬の怒り声が響き渡る。
「頭の中で彼女を使って、欲しい言葉、逢いたい姿を作ったあげく、それを見たら自分勝手に納得したのかよ、俺は?」
握りしめていた手を大きく振り上げると、掌(てのひら)から、グシャグシャになったマッチ棒がこぼれた。
「4年間追っていたものって…」
吐き捨てた言葉を噛み砕く様に一ノ瀬は歯を噛み締めた。
「一ノ瀬さん」
久川は小さく言葉を紡ぎ出した。
「確かにFIRE LIGHTは見たい幻をみせる麻薬です。亡くなった方に再び会える薬ではありません。でも、そこにあるのは大切な想い出じゃないんですか?想い出を見る事は悪い事なんですか?」
久川の両頬を涙が伝わっていたが、しっかりと言葉を出せる様に強く涙を拭った。
「聞いた声、逢えた人は、一ノ瀬さんがその人と一緒に過ごした大切な想い出の一部なんですよ!都合の良い想い出なんてないんです!記憶は時間と共にいつかは忘れてしまう。だけど想い出はずっと忘れる事はないんです!」
久川は力強く言葉を出した後、上気した顔に気づいたのか隠す様に両手を頬を当てた。
「……全く、余計なお節介だよ。初めて会った時から」
「私は、人を助けるのが仕事です!」
久川はわざとおどけた様に笑顔で敬礼をした。
一ノ瀬は腰を下ろしていた瓦礫から立ち上がると、掌に残っていた潰れた箱を投げ捨てた。
「またここへ戻ってくるよ」
一ノ瀬は地面に倒れていたショルダーバックを担ぎ直した。
その瞬間、木々を揺らした強い風が吹き抜け青空に木の葉を舞い上げた。
一ノ瀬の視線は無意識に舞い上がった木の葉を追っていた。
木の葉と一緒に白い煙の様なものが見えた。
「一ノ瀬くん」
一ノ瀬は慌てて振り返った。
懐かしく温かい声で自分の名を呼ばれた気がした。
「どうしたんですが急に?驚いた顔をして?」
久川は不思議そうに見つめてくる。
一ノ瀬はもう一度、白い煙があった所を見上げたが、そこには何もなく青空だけがあった。
少しの寂しさと小さな苦笑い。
「あぁ、またな」
一ノ瀬はそっと空に呟いた。
〈終〉