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On s'en va ~さぁ、行こう!~ 前編

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1.『Bonnes vacances!』(よいバカンスを!)


「何だこれは!」
磨羯宮。シュラは先程支給された今月の給与明細を見て、悲鳴を上げた。
聖域では各宮の光熱費は給与から天引なのだが、シュラは先月あまりにも暖房を使い過ぎたため、手取金額が雀の涙程しかなかった。
これでは飲み屋に行く事はおろか、毎日のタバコ代でさえも捻出できない。
原因はわかっている。
ミロがカミュに生活費を借りるためバカな特攻を仕掛け、それを迎撃するカミュが何度も技をぶっ放したため磨羯宮に凍気が流れ込み、結果暖房をガンガンにたかなくてはならなかったせいだ。
ミロとカミュの銭の喧嘩に巻き込まれた結果がこの始末である。
何故に連中の喧嘩のせいで、自分の懐が痛まなくてはいけないのだ。
あまりの理不尽さに、さすがのシュラも我慢できなくなった。
ガタッと椅子を蹴って立ち上がる。
「こりゃ飲み屋で奢るだけじゃ済まさんからな……」
給与明細と『ある決意』を握りしめて隣の宮に赴くシュラ。
カミュはちょうど出向期間中で聖域に駐留しており、シュラが訪れた時は宝瓶宮のテラスでオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」の原書を読んでいたのだが、来客に気付くと本にしおりを挟み、赤い髪を揺らしてゆっくりと顔を上げる。
「ああ、シュラ。来たのか」
「読書中すまんな。申し訳ないついでに、これを見てくれないか?」
と、シュラはカミュの目の前に自分の給与明細を突き出す。
突然の行為に驚いたカミュであったが、目の前でピラピラするものをじっくりと眺めると、小声で、
「少ないな。今月これで生活できるのか?」
「できないな。どうしてこうなったかわかるか?」
シュラの声は、やけに冷たい。カミュの小宇宙でさえ負けそうになるくらいに、冷たい。
カミュの目が突き付けられた明細書の紙面をさらに追う。
「……やけに光熱費が高いな」
「そうだな」
「……ひょっとしなくても、私のせいか?」
カミュの端正な容貌が、やや陰りを帯びる。シュラは大きく頷くと、
「お前にはお前の事情があったからな。お前を一方的に責める気にはなれん。だがな、俺の家計が火の車になった遠因が、お前の行動にもあるとは思わないか?」
お前を連呼し過ぎです、シュラさん。そんなに腹立ってるのですか、シュラさん。
「否定は、しない」
かなり生真面目なカミュは、シュラの給与明細を見てさすがに罪悪感を感じたらしい。
泣く一歩寸前の顔で「済まない……」と消え入りそうな声で呟く。
もしカミュと対峙しているのがゼーロスであったならば…そんなカミュに嬉々として蹴りを入れるのであろうが、シュラは男をいたぶる趣味は無いので淡々と、
「では、出向期間が終わったならば……ちょっと付き合って欲しいところがある」
「私で付き合える場所であるなら、付き合おう。それくらいしかできないからな」
シュラはその返事を聞き、ようやく表情を緩めた。
「そうか。では遠慮なく付き合ってもらう」
「承知した。で、一体どこに行くのだ?」
カミュの問いかけを受けたシュラは、ポケットからコインを取り出すと、親指で弾いた。
「モナコだよ。お前のせいで給料が大幅に減ったからな。カジノで一山当ててくるのだ」
「……デスマスクのような事を言うな」
「誰のせいでこうなったと思っているんだ?」
赤毛のフランス人の論評に、やや頬が引きつるシュラ。
いつもなら一服して気を落ち着かせるのだが、宝瓶宮は完全禁煙だ。タバコは吸えない。
シュラは一つ呼吸をして頭を冷やすと、
「モナコは公用語がフランス語だからな。正直俺は簡単な日常会話程度しかフランス語ができんのだ。こんな語学力でカジノに行ったら恥をかくし、勝てるかわからない。よってだ……通訳をちょっと頼まれてくれ」
「それでよく、モナコで一山当てようと思えたな」
今度はカミュが顔を引きつらせる番であった。シュラはやや唇を曲げてにやっと笑うと、
「フランス語のできるアフロディーテと『任務』で何度かモナコには行っているのでな。言葉さえ何とかなれば、カジノでは負けん」
「『任務』か……」
その任務がどのようなものか、偽教皇時代のサガのバブリーな生活を見れば、大方見当がつく。
聖闘士の特種能力を使って、カジノで荒稼ぎしていたに違いない。
『聖闘士の力をこのように使うのは…あまり気が進まないが…』
しかし、シュラの生活が苦しくなってしまったのは自分にも一因がある。こうなったら仕方ない。生活費を賭博で稼いでも大目に見るか。
「わかった。私の駐留期間は今週いっぱいだ。シュラはいつまでだ?」
「俺は明日までだ。ではモナコ出発はお前の都合に合わせよう」
「了解した。宿はどうする?」
「ああ、そこは心配いらん。モンテカルロ市内に定宿がある」
「ほぉ」
知らなかった。そんなに頻繁にカジノに行っていたのか!?
シュラは取り繕うように慌てて、
「カジノ以外にもモナコは見る場所が多いのだ。フランスリーグの試合もあるし、コンサートも多い。F1モナコグランプリなんてかなり有名だろうが!」
「……そう言えばそうだな……」
全て観光ではないか、任務と何の関係があるのだ?と、シオン教皇なら突っ込むところであろうが、カミュはよくも悪くもお人好しなので、あっさりと納得してしまった。
モナコ・モンテカルロ市。紺碧の海と空を臨む、地中海の一大リゾート都市。
考えてみれば一度も行った事がない。
フランス生まれだがシベリアで過ごす事が多かったので、フランス近辺の国や都市を訪れた事が余りなかったのだ。
こうなってくると何となく楽しみになってきてしまうもので、ついつい顔が弛んでしまう。
「たまには息抜きもよいな」
「では通訳の件は頼んだぞ」
シュラは恥ずかしい金額の給与明細を懐にしまい込むと、キュッと踵を返した。
この時シュラもカミュも、もう一人の当事者についてすっかり忘れていた。
そしてそれが後々どんな結末を生むのか、全く考えていなかったのである。