バー・セロニアスへようこそ 後編
午後7時10分
心拍数がようやく平常に戻った頃、ファラオは一旦バックヤードに下がった。
マスターから1時間に10分程度の休憩を認められているのである。
ロッカーを開け自分の鞄の中からヴォー○フォンを取り出すと、メモリを呼び出し宿敵の電話番号を検索した。
数回の呼び出し音の後、耳に気持ちのいい聴き慣れた美声がファラオの携帯電話のスピーカーから流れる。
『Hello?』
「きーさーまぁーー!!黄金聖闘士が来る店だなんて、一言も言っていなかっただろう!」
電話口でいきなり怒鳴られ、高級イタリアンレストランで食事中だったオルフェは眉を顰めた。
彼は同席していた人間に目礼すると、レストルームへ駆け込む。
「無視するな!返事をしろ、オルフェ!」
『電話できるような場所にいなかったのだから、ちょっと待てよ!こっちは食事中だったんだ!』
いつもは穏やかなオルフェも、やや語気が荒くなる。
彼は食事と音楽と恋人との語らいを邪魔されるのが、何よりも嫌いだった。
オルフェが聖域から失踪した理由は、実はこの辺にあったりする。
ファラオからの怒鳴り声を受けたオルフェは不機嫌さを隠さない口調で、
『で、そんなに大きな声出して何があった?』
「黄金聖闘士が来たぞ、黄金聖闘士が!」
『アテネ市内だから来るだろうねぇ』
非常に人を食った返答である。ファラオの怒りは頂点に達した。
「お前、今日聖闘士の給料日だから私にアルバイトを押し付けただろう!?」
『人聞きの悪い!!!』
常に穏やかな、滅多に声を荒立たせないオルフェが、珍しく怒鳴った。
『聖域の給料日を知ったのなら、今日師匠と食事に来た理由もわかるだろう!?今日じゃないと、師匠もレストラン来られないんだよ!!』
「それは・・・」
盲点だった。考えてみれば、『オルフェ』の師匠も聖闘士なのである。
「・・・そういえば、そうか」
あっさりと頷くファラオ。オルフェとユリティースを鏡で騙した過去もあるが、実は素直で純粋でいい奴なのだ。
「悪かったな、食事中」
『わかってくれればいいよ。お仕事頑張ってね。じゃぁ』
プツッとフックボタンを押し、小さく息を吐くオルフェ。その秀麗な口元には、悪魔の笑いが浮かんでいる。
「僕って悪い奴かな?」
鏡に映る自分にそう語りかけ髪と服装の乱れを正すと、何食わぬ顔で食事に戻る。
『何かあったのか?』
オルフェの中座を訝しく思ったのか、同席していた相手が尋ねた。
すると柔和な容姿の音楽家はやや唇を曲げると、軽く頭を振った。
「いや、僕の代わりにアルバイトに行った友達が、『勝手が分からない』って泣きついてきただけさ」
「そうか」
「だから気にしないでいいよ、ダイダロス」
そう、オルフェと食事をとっているのはケフェウスのダイダロス。
アンドロメダ瞬の師匠である。
オルフェは給料日に黄金聖闘士がバーに大挙する事を見越して、バイトをさぼる口実を作るために、ダイダロスと食事の約束をしたのであった。
『僕は一言も『僕の師匠』とは言ってない。師匠は師匠だけど、瞬の師匠』
あの純な冥闘士を騙した事に少々の良心の呵責を覚えつつも、「人生には刺激も大事だよね」と自己肯定し、赤ワインを口に運ぶ。
「今日は野暮な事言わないでゆっくり食事しようよ。このレストラン、予約取るの大変なんだから」
「あ、ああ、そうだな」
まだ納得できていない様子のダイダロス。
この音楽家、見た目は優しいが、その仮面の下には恋のためなら使命や義務を投げ出す無責任さと、自分を騙した相手を完膚なきまでに叩きのめす凶暴さも持ち合わせている。
……なので、この男の言葉を額面通りに受け取るのは非常に危険だ。
しかし本心を問い詰めたとしても、オルフェはフワフワとした笑みを浮かべ答えをはぐらかす事であろう。
考えても野暮だ。
ダイダロスは目の前に並べられた素晴らしいイタリア料理を楽しむ事に頭を切り替えた。
折角いいレストランに来ているのだ。ゆっくり料理を楽しまなくては損だ。
「しかし、お前よくここの予約を取れたな」
「ああ。音楽家なんて商売やっていると色々ツテがあってね」
「そうか……」
随分と得な商売なのだな、と皮肉を言いたかったが、それは前菜のプロシュート(イタリア産生ハム)のサラダと共に胃に流し込む。
しかしオルフェはダイダロスの心の声が聞こえたかのようににんまりと笑うと、
「人に愛と夢を与えつつ、自分も幸せになれるなんて、こんなに素敵な商売ないよ」
ダイダロスは沈黙した。
作品名:バー・セロニアスへようこそ 後編 作家名:あまみ