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幸せな青年

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グレーの外套に背広はサキソニー織で、カシミアの青ストールを首にかけたイタリア青年が、革底でステーションに降りた。改札を途中下車ですませて、飴色の旅行鞄は預けなかった。
マドリッドより静かなのは、オフィスが消灯している時刻だったし、まだバルが通りに見えないからだと考えた。ステーションを出て、南に二つブロックを行くと、若い並木通りが始まる。そこでびっしり続いていた箱型のオフィスが間をおいて、カフェテラスや、公園を挟むようになる。
初めての街の標識を見上げて、目当ての人を思いながら歩いた。
しばらく会わないアントーニョ。


アントーニョの新しいオフィスは、この界隈にあった。
アントーニョの定期メールには、番地こそ抜けていたが、アベニューには間違いなかった。
「忙しいのは確かです。この時期はどこだってそうでしょうし、俺は体が丈夫なんですから平気です。ロヴィーノとフェリちゃんは、しんどいんじゃないかなって思います。難しいでしょうけれど、無理はしないように。アントーニョ。」
オフィスのアドレスから、23時48分送信。
まだオフィスにいると踏んだが、どうだろうか。季節のタイをそろえているだろうか。アイロンを忘れていないだろうか。もしかしたら、痩せたろうか。


新しい街だからブロックが単調で、迷うことなく、アントーニョが赤い実を見つけた並木通りにかかると、いくらか人が出ていて、通りすがったカフェテラスにかかる、太陽のタペストリーの奥から、酒の気配がした。木々は葉を落として、黙っていた。梢の先の、星と一緒に灯る、いくつかの窓を見上げたロヴィーノと、目印に決めていた円筒のビルディング。


人影こそなかったが、フロアがあちこち明るく、聞いた通りの多忙なオフィスだった。歩道から見上げているのでは、ジャケットを脱いで袖まくりに資料とにらめっこしているのか、頭をかきながら本部へ電話をしているのか、甘いコーヒーを飲みながら同僚と談笑しているのか、分からないが、あれらの電灯にたしかなアントーニョを思って、深く吐かれた息が、ひとりで白く広がって、消えていった。


光を乗せたバスが行き過ぎた拍子に、外套のポケットに気がついた。モバイルがふるえながら、アントーニョの名を点滅させていた。窓に、人影は変わらずなかった。
「オラ・・・」
疲れた時の、寄りかかるような声が、ロヴィーノは秘密に好きだった。
「ロヴィーノ・・・」
返事に備えたところに、空っ風を吸ってせきこんだ。
「風邪なん」
「いや。ただ。びっくり、して」
「驚かしてしまったんな」
「平気だ」
アントーニョの窓は分からず、アントーニョもロヴィーノのいる街を知らない。


「さっき上司と会うてな、聞きたてほやほやねんけど、この案件にめどが立ったんよ」
「へえ」
「来月にマドリッドに戻るんやわ。気張ったらバカンスかて取れそう」
「そう」
「でな、どこ行こうな」
アントーニョはたぶん、少しむくんだ顔で、やさしく笑っていた。


信号までアントーニョの下手なロシア語が続いて、馬鹿にしながらロヴィーノは、眠たげな人のために、列車に乗ることだけを伝えて、遠くにいるままおしまいにした。
ステーションへの道すがら、ロヴィーノは、噴き出してやっと、自分が笑っていることに気がついた。




作品名:幸せな青年 作家名:井伊