名前をつけてやる
くっきりと大きく、決して失くさない様に。
カーテンから洩れる光で目が覚めた。薄く開けた瞼の向こう、視界に入った天井は白くきれいで、元々帝人が池袋に越してきた頃住んでいた場所とは遥かに違う。けれどそれに違和感を感じなくなるほどの時間をここで過ごしているのも事実で、
広いダブルベッドの片側が既に冷たくなっているのに気づき、のそりと身体を起こす。傍のカウチに掛けてあった白いカッターシャツを適当に羽織ると、帝人にはだいぶ大きかった。それもそのはずで、そのシャツは臨也がスーツのようなきっちりした装いをするときに身につけているもの。この部屋にあるものは、臨也が仕事に使うもの以外、なんでも自由に使える帝人だが、さすがに衣類についてはその限りではないと思う。それでも敢えて臨也のシャツを勝手に羽織るのは、いつも帝人の服をだめにする臨也へのささやかな嫌がらせのつもりなのだが、それが本人に伝わっているのかどうかはわからない。
腿の辺りまでを覆うシャツだけを身につけ、帝人は裸足でフローリングの上を歩き、広いリビングへ出た。
「おはよう。よく眠れたみたいだね」
声のする方に目をやると、臨也は既に着替えてパソコンの前に座り、軽快なタッチでキーを弾いていた。今日は日曜だが、いつものように仕事をしているんだろう。挨拶をする一瞬だけ帝人の方を向いて笑いかけ、それからまた視線をデスクトップに戻して作業を続けていた。
自分が起きれなくなるほど無理をさせるのは誰のせいだ、と心の中で毒づきつつ、発そうとした声が枯れているのに気づく。そういえば昨日飲みかけのコーラを半分くらい残していたはずだったと、ぼんやりする頭で思い出し、キッチンに向かった。
冷蔵庫を開けてサイドボケットを見下ろし、愕然として勢い良く振り返る。寝ぼけていた頭も一気に醒めた。
「臨也さんッ! 僕のコーラ、飲んだでしょう!?」
サイドポケットは見事なまでに空になっていて、空いたスペースが飲み物の訪れを待っている。帝人は別に、自分のものを飲まれたことを怒っているわけではない。ただ飲みかけのものを敢えて求められるという行為そのものが、なんだかいかにも臨也らしくて恥ずかしくなっただけだ。変態じみてる、という表現は、一応同居人の名誉のために心にしまっておくことにする。
パソコンの正面に座ったままこちらに目を向けた臨也は、大げさだなあ、とわざとらしく肩を竦めてみせた。
「あー、そうだった、ゴメンゴメン、ミネラルウォーターと間違っちゃってさあ」
「どこをどうやったらコーラと水を間違んですか」
「あー、まあどっちもボトルだし?夜中だったから暗くて見えなかったんだよね。でもほら、一緒に住んでるわけだし、よくあることでしょ」
「…それはそうかもしれませんけど、敢えて飲みかけを飲まれるってところが気持ち悪いです」
「えー?ひどいなあ」
言葉とは裏腹に楽しそうに笑いながら、臨也は傍に置いてあったミネラルウォーターのボトルを摘んで、キャップを開けながら帝人の方へ歩いてきた。
「駄目だよ、自分のものにはちゃんと名前でも書いておかなきゃ。…こんなふうに共用じゃないのなら尚更ね」
背を屈めてゆっくり近づけられた顔は、相変わらず忌々しいほど整っている。口移しでミネラルウォーターの水を流し込まれ、潤う喉のすぐそばで鼻腔をかすめる香りが昨夜の出来事を思い起こさせて、顔が熱くなりそうだった。けれどここで押されてしまっては臨也の思う壺だと知っている。
「…名前、ですか」
口の端から一筋の線を描いて流れ落ちた水を手の甲で拭って、もっともらしい臨也の言い分をふぅんと軽く聞き流しながら、帝人は少し背伸びをしてそのまま返す右手で、臨也の襟元を掴んだ。強く引っ張って引き寄せると、剥き出しになった肌に噛み付いた。ちょうど、首筋と鎖骨の間あたり。飢えた動物さながらに。
「…いっ…!」
痛みなのか快感なのか、臨也が小さく呻いた。それを聞いてから帝人は顔を離す。そこには赤くくっきりと歯型が浮かんで、その存在を主張していた。
「自分のモノには名前を書くんでしょう?」
仕返しとばかりに悪びれることもなく笑うその目を見て、臨也は一瞬目をまるくした後、降参とでも言わんばかりに苦笑して同じように帝人の首筋に顔を寄せる。
「…そうだね。なくしたり落としたりしても、さいごはちゃんと帰ってくるように」
毀れるように落とされた鬱血が、白い肌の上で花のように綻ぶ。ひどく満足げな表情でそれを見下ろしながら、
「なんて、ちょっと滑稽かもしれないけどね」と、ほんの少しだけ自嘲気味に、臨也が笑った。