花蝕
止めなければいけない。この腕を。あたしの腕なのに、ただ固まることが難しくて戸惑う。安易に頬を寄せてくる彼女に。ああとても、これはとても悲しいことなのだけれど、すごく嬉しいのにもうやめてと思う。彼女を抱き締め返したくて、その、きっと滑るような背中の、背骨のラインを撫でたくて仕方ないのに、あたしは今すぐにそうすることができない。あたしには見えている。彼女の後ろで、彼女の目の届かないところで、彼女の肌に向かって爪をたてるあたしの指が。
恐ろしくなる。そんなこと、したくない。そう言い聞かせて、びくんと震える指先を見ながら、こころの中でやめてと呟く。そんなことはやめて。お願いだから、と。彼女を傷付けるなんて。とんでもない、と思うだけ。思うだけでいいのだ。そうすると、こころの中に返事がある。「でも僕はこれを傷付けたくてたまらないんだ」と。
爪先が空を切る。これはほんの一瞬のお話。きっと彼女はほんの3秒前にあたしに笑いかけ、2秒前に手を取り、1秒前に抱き締めてくれた。そうきっと。けれど、こころの中の空間は別のベクトルで、現実でいう数秒を、あたしたちは何十分、何時間と共有できる。そう。あたしたちはひとつなのだ。
優しくしたい。彼女に。優しく、柔らかく、女の子らしいそれで触れていたい。手を繋ぐだけ。髪を撫でるだけ。ときどきこうして包んであげる、それだけをしていたい。でも誰かは言う。もっと汚い手で彼女に触れて、嫌がる様を見たい。爪を研ぐ鋭利さで彼女のあの笑顔を、どの層まで本物なのか、皮を剥く要領で一枚いちまい剥いでいきたい。細い腕を掴んでなぎ倒し、泣いて喚く無様な姿(それは僕にとって至極美しく、たやすく向けられる笑顔よりも尊い)。ああそれらすべてをこの目におさめて、この腕で捕らえる。わかるだろ、リン。きみにならわかるはずだ、だって僕ら。ふたりでひとつ。リンだって思ってるはずだよ、彼女を。食べてしまいたいって。
時計の針が1ミリ動く頃。あたしは彼女のむき出し肩を包んだ。ぎゅう、とほんの少しの力で抱き締めて。伝わるかどうかもわからない。あなたひどいひと。と、肌のフィルターを通す。そしてあのひとときとはかけ離れたほんの一瞬ののち、えへへと笑う照れた顔。こんなにもかわいいのに。こんなにも大事で、いとおしいのに!こころのどこかではなく、あたしが思ったんだ。ああ、壊してしまいたい。
いつか花開くことがありませんようにと願う。あたしはきっと望まれない、かわいいあなたを食べてしまう汚らわしい植物だ。きゅっと胸を押さえこんで、種が芽吹かないようにと願う。だからあたしのこころはずっと潤わない。いつだって枯渇して、ほんの少しの液体を求めてむしゃくしゃしている。それなのに、あたしに笑いかけるなんてどうかしている。あなた、自分をおいしそうだと狙っている獣に、水をあげているのよ。