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マイ・ホームタウン

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 小ぶりの茶杯を親指と中指で挟み、馥郁たる芳香を楽しんでいるヤンファンの前に座っているツィーリンは、落ち着きの悪さを感じていた。
 老師ことバイメイニャンに話があって玄城に来たのであるが、当の彼女は『ちょっと出てくるから留守番頼んだよ』と、調べ物に来たヤンファンに言い残して何処かへ出掛けたという。突然降り出してきた雨に追われるようにして飛び込んできただけに、再び雨の中に戻る気にもなれず、仕方なくツィーリンは、手を止めて茶の支度をしてくれたヤンファンの前に座っているのであった。
 兄のように慕っていた時期もあり、ヤンファンの事が嫌いというわけではもちろん、ない。
 ただ、衛将軍という身分になり、黄京の大将軍ヤンユーチュンと共にその名を称えられるようになった今では、俄かに二人きりにされると緊張感を孕んだ隔たりを感じる。
「こんな雨の中を、老師は何処に行かれたのか……」
 ツィーリンと違ってゆったりと寛いでいるような口調で、ヤンファンは窓の外の雨を見ながら呟いた。
 返す言葉も思いつかないまま、ツィーリンは両手で包み込んでいる青磁の茶杯に目を落とす。
 今日のヤンファンは、裾が長めの藍色の上衣に黒綾の帯、白い下穿きに黒い長靴という装いである。結い上げた横鬢のほつれを直しながら、ヤンファンは続ける。
「行き先も戻られる時間も仰らなかったから、そう遅くはならないと思うが」
 彼が気を使ってくれているらしい事に気づいたツィーリンは、慌てて顔を上げた。
「いえ、急いでないので構いません」
 そう言って会話の糸口を探そうと部屋の中を見渡し、衝立の奥の書机に積み上げられた書物の山を見つける。
「何を、調べていたんです?」
 ヤンファンはツィーリンの視線を辿って振り返り、ああ、と頷く。
「西の世界について文献が残っていないか探しに来たのだ」
 西の世界、という言葉を聞いて、ツィーリンはかすかに体を固くした。
「彼らは、西へ戻るそうだな」
 彼らとは、乾いた大河を流されて来た西からの旅人達の事である。ゼルナム族との戦いを経て、共にアビスの魔貴族達に立ち向かうという共通目的を持つに至っていた。
 ツィーリンは紫檀の卓子に目を落としたが、やや間を置いた後、覚悟を決めたように顔を上げた。
「……実は、老師にお話というのは、彼らと一緒に西へ行くべきかどうかという相談です」
 ヤンファンは黙ったまま話を促すように、軽く眉を上げてツィーリンの顔を見つめ返した。ツィーリンは矢継ぎ早に言葉を続ける。
「迷っているんです。誰も行き来出来なかった死の砂漠を私が越えられるかどうか、あの人達の足手まといにならないかどうか不安ですし、ムング族族長代理としての務めもあります。お元気とはいえ高齢の老師を置いていくのも気掛かりですし、それに……」
 ツィーリンは途中で口を噤んだ。ツァオガオによって傀儡にされてしまっているミカド、悩みながらも忠義を誓い続ける大将軍、そんな黄京を気にかけながら玄城を守っている貴方の事が気にかかる、という言葉を目の前の本人に言うのは、媚の様に受け取られそうな気がしたのである。
 途切れた先の言葉を、ヤンファンは問い質すような事はしなかった。ただ、広い袖の下で腕を組みながら別の事を尋ねた。
「今言ったのは行かない方が良いと思う理由だな? それに対して、行く方が良いと思う理由とは何だ?」
 ツィーリンは、ヤンファンの切れ長の瞳を見つめ返した。
 が、彼の静穏な眼差しに心苦しさを覚え、再び梅子青の茶杯に視線を落とす。
 その理由とは、ただ一つ。
 西の世界をこの目で見てみたい、という好奇心のみである。
 茶杯を包み込んでいる片手の甲にヤンファンの人差し指が触れ、ツィーリンはびっくりして目を上げた。
「自分に対しての言い訳が少ない方が、本当に望んでいる事だよ、リンリン」
 幼名で呼ばれ、ツィーリンは顔が赤くなるのを感じた。本心を見透かされたような気がしたのである。子供のように自分勝手な我が侭を。
「自分が本当に望んでいる方が分かったようだな。西へ行く最初で最後の機会かも知れない。あの時ああしておけば良かった、という後悔は後を引くものだ。行けば良い、西へ」
 落ち着いた口調のまま、ヤンファンは続けた。
「そう気負わずとも、行く事が出来たなら帰る事も可能なはずだ。いつでも帰ってくればいい。私や老師はずっと此処にいる。いつまでも、おまえの帰る場所であり続ける」
 ツィーリンはヤンファンを見つめ返した。
 遠くに離れても自分の身を案じてくれている人があり、帰る場所がある、その事は安堵を。そして、彼女が旅立つ事に不安を抱いていない、つまり、自分以上に自分を信じてくれる人がいるという事は、ツィーリンに勇気を与えた。
「……はい」
 晴れ晴れと微笑んだ後、力強く言ったツィーリンにヤンファンは短く頷き、茶壷を茶盤の上に置いた。
「もう一杯どうだ?」
 心に染み入るような爽やかな甘みを楽しみながら、ツィーリンは「おいしい」と微笑んだ。湯気の向こうで、ヤンファンがはにかむような笑みを返す。こんな風にヤンファンと再びお茶を飲みたいと、ツィーリンは心から思った。
 いつの間にか雨は上がっており、軒先から零れ落ちる雫の向こうに虹が見えていた。
 淡く大きな虹は、東の空から西の空へ、まるで架け橋のように緩やかな弧を描いていた。

――終――
作品名:マイ・ホームタウン 作家名:しなち