残り香
男は僅かに口元を緩め、手にした盃をぐいと干す。そのまま視線を隣りに流せば、同じく盃を片手に、鷹揚な仕草で提子を傾ける貴人の姿があった。何も手酌などせずとも良いものを、と男は忍び笑った。生まれた頃より傅かれる身でありながら彼の人は妙なところで気安い。
笑う気配に気づいてか、龍人の長はゆるりと首を傾けた。
「如何かしたか」
「いいえ、何も。一寸ばかり懐かしい匂いだと思っただけですよ」
「匂い?」
そんなに呑んだつもりはないのだが、といぶかしむ風情で己の袖を鼻に寄せる。その仕草の、存外あどけないさまに堪え切れずに男はくつくつと笑った。
確かに米から造る酒は此方では珍しい。口に含めば立ち上る酒精の甘さは鬼妖界独特のもので、なるほど彼の地を思い出さないでもなかった。故郷を同じくする者と月を肴に盃を交わしていれば尚のこと。けれども男の興をそそるのは、酒気の芳しさなどではなかった。
「昼にも少し思ったんですがね」
盃を持たぬ空手は彼の利き手だった筈だ。なめらかに白いその指先を掴まえて、男は顔を寄せた。拳を振るって闘う武人のものとは到底思えない繊細なてのひらだった。酔っ払いの戯れと取ったか、龍人は殊更気分を害した様子もなく、されるがままに男に利き手を預ける。
本当に気安いひとだ、と男は苦笑を滲ませた。これが故郷であれば龍人の長など天の月、腕を伸ばしたところで届くべくもない。それがどういう偶然の積み重ねか、天上人の貴い腕はこうして己の掌中にあった。
「貴方のこの手、いつも甘い匂いがしやしませんか」
男の言に、龍人は得心がいった顔で鷹揚に頷いた。盃を置いたその手で袂を探り、馴染みの扇をぱちりと開いてみせる。途端、懐かしくも芳しい匂いが、夜気にふわりと散った。
「扇の骨を白檀で作らせた。その匂いが袖にでも移ったのであろうよ」
「ははあ、なるほど、こいつが白檀なんですねえ」
「なんだ御主、知らぬのか」
「ええ、香の類だろうとは思いましたが、恥ずかしながら名前までは。自分はその手のことにはとんと疎いものでしてね」
何せ生まれは武門の家だ。女であるならともかくも香を焚くなどという雅な趣味を知る由もなく、けれど故郷のどこかで同じ香に馴染んだことがあったのだろう。ひどく懐かしい心地がした。
龍人は閉じた扇を男の鼻先に突きつけて、幾分悪戯めいた笑みを浮かべた。
「気に入ったなら呉れてやろうか?」
「生憎ですが、自分の両の手はもう塞がっておりまして」
傍らに置いた三味線を手に取り掲げてみせると、存外つまらぬ男よ、と興の醒めた声音で吐き捨てられる。男は笑って撥を構え、手慰みに弦を弾いた。
所詮は気侭な根無し草、仮初めに留まってはいるものの何時また流れるとも知れない。そんな身だからこそ手に余る荷物は持たないのだと言えば、龍人は微かに緩んだ口元をはらりと広げた扇で隠した。
「随分と意気地のないことを言う」
「手前の分ってやつを心得ているだけですよ」
男はもう一度弦を弾く。
「それに此処に居る間はわざわざ頂かなくとも香を楽しむことは出来ますしねえ」
「小童めが」
悪態を吐く龍人がゆるりと扇ぐ度に、甘やかな匂いが流れる。紅殻に塗られた扇は月にかかる叢雲の如く、白い面を覆い隠した貴人がどんな風情なのかは杳として知れず。
さて今宵のお月さんは御機嫌斜めの御様子で、と嘯いて、男は手にした三味線を爪弾いた。