【幽静】貴方だけ
落ち着いた声と物腰の柔らかな動作に迎えられ、俺はゆっくりとその店へ入った。長い廊下を端から端まで案内されると、店員は軽い会釈と共に下がる。代わりにいかにもオーナー然とした男がすっと出てきて、今度は深いお辞儀。
「ようこそおいで下さいました。お席はこちらにご用意してございます」
差しのべられた右手と共に、さらに店の奥へと進んだ。程よいトーンに落とされた照明と格式高い調度品とが調和しあい、この店のーー東京随一といわれる高級料理店の名が名ばかりでないことが一目でわかる。さすがは社長に教えてもらった店だ。
奇人変人と言われるジャックランタン・ジャパンの社長だが、社長だけあってこう云う店にも顔がきく。業界人の接待などに使っているのだろうか。幸か不幸か、俺はそういう場には呼ばれたことがないけれど、落ち着いてプライベートが過ごせる店はないかと聞いたら快くこの店を教えてくれたそればかりか、社長の名前で予約まで取ってくれた。
もちろん社長からは「お忍びデートじゃないよね?変な噂とか立たないよね?」という念押しがあった。所属の俳優ががプライベート云々と言えば、それは当然気になるところなのだろう。そのビジネス上の心情は理解できたから、俺は素直に事実をいうことにした。
兄と過ごすだけですから、と。
「……お連れ様はもうお着きでございますよ」
振りかえるでもなく、しかし決して無礼にはならない程度に首を傾けたオーナーに俺は無言で頷いた。今日の仕事は雑誌の取材と撮影だったが、予定よりも少々押してしまっていた。遅れると伝えたメールには返信がなかったけれど、きっと先に来て待っているのだろうと思っていた。予想が当たって、自分でも頬が緩むのが分かった。
オーナーの右手が再び伸ばされる。その先には小さいが雰囲気のいい個室。そして部屋の中には、椅子にもたれて煙草を吸う兄さんの姿があった。
「ごめんね、遅くなって」
「いや、こっちこそ悪ィな。仕事忙しいのに」
「ううん」
オーナーが引いてくれた椅子に座ってワインを頼んだ。兄さんの手元に飲み物が見当たらなかったから、同じものを2つ。
「先に飲んでれば良かったのに」
「メニュー見たんだけどよ……よく解んなかった」
「そっか。じゃあ食事も適当に頼んじゃうよ」
「おう」
腹減っちまってよーと苦笑する兄さんに、俺もだよと相槌を返す。メニューにさらっと目を通して、ワインを運んできた店員にオーダーする。恭しく個室をあとにした彼を見送って、ようやく二人きり。少し口元を緩めたら、兄さんもホッとした表情で一か月ぶりだなと会話が始まった。
今の仕事を始めて最初に貰った給料で食事をしたのが最初。それから月に一度はこうやって兄さんをもてなす。今日みたいに高級レストランの個室を予約することもあるし、撮影で使った雰囲気のいい店にお忍びで行ったりもする。食事だけじゃない。一緒に服を見に行ったり、主演した映画の舞台挨拶に招待してみたり、舞台に誘ってみたり。一緒に行きたいところ、兄さんに見せたいところ、兄さんが行きたがっているところ……候補は幾らでもあるし、お忍びと言っても相手は家族だから女性と一緒の時のように気を遣わなくていい。同じ街に住んでいるし会おうと思えばいつでも会えるのだけれど、俺はこの習慣を大事にしたかった。代金はすべて俺もち。兄さんはただただ楽しんでくれればいい。
だが兄さんはいまだにそれを不思議がる。毎月毎月懲りずに同じことを聞いてくる。今だって、個室をぐるっと見渡してひとしきり内装に感心したあと、
「ほら、こういう……他人に金使うってのはさ、もっと他にするべき奴がいるだろ?」
と、それは多分スポーツ紙に書かれた記事を鵜呑みにしての発言だろう。2杯めのワインに口をつけながら、俺ァお前ン家で缶ビール飲むだけでもいいんだぜ?と気を使ってくれる。
「別にいいじゃない」
「でもよー。流石に毎月じゃあ悪ィ気がするんだよ」
「いいんだって」
月に一度は二人であって、他愛もない話をする。仕事の話、独尊丸の話、兄さんの先輩の話、家の洗濯機が壊れた話、久しぶりに兄さんの炒飯が食べたいな、そういやお前昔卵焼き作れなかったよな、昔話に花が咲いて本当に楽しい。思わず顔が綻んで、ほろ酔い加減の兄さんと目があったら、呼応するようにくしゃっと笑ってくれた。
兄さんは美味しいとか楽しいとか、俺が口に出さなくても解ってくれる。これが兄以外の人間ならこうはいかない。こちらの変わらない顔色を窺ってはお口に会いますか?つまらない話題ですみません。そろそろお店を変えましょうか……楽しんでますよ、美味しいですよと本心から言っても伝わらない。表情に出なければ本当じゃないなんて、一体誰が決めたんだろう。
兄さんとならそんな気苦労はいらない。だから、お金も労力も厭わない。
「兄さん、魚料理のナイフはこう持つんだよ」
「ええと、難しいな……っていうか幽、こんなの何処で習ったんだ?仕事か?」
「うん。偉い人と食事をすることもあるから、マナーは覚えとけって、最初に教えてもらった」
「大変なんだなァ。俺なんか社長と飯食うときだって何も変わらないぜ?」
こんな些細な会話だって、兄さんと以外には出来ないんだから…とは口には出さず。代わりに、ナイフとフォークと悪戦苦闘している兄さんを見て可愛いと独り言。
「何か言ったか?」
「ううん、それよりこの間ね…」
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
「たまには俺にも払わせろよ」
「いいんだよ」
「でも、」
「いいの。これは俺のわがままだから」
きょとん。そんな音が似合いそうな顔をして兄が首をかしげる。何のわがままなのかは言わないまま、オーナーからカードと領収書を受け取って店の外に出る。途中までは同じ帰り道だから、タクシーを拾わずに国道をだらだらと歩いていく。夜風が肌に気持ちいい。
「今度何か奢るな。高いモンは食わせられねぇけど」
「いいよ。お気に入りのラーメン屋でも連れてって」
「おう」
にかっと笑う顔が街灯に照らされてまぶしい。銜え煙草で紫煙をまきちらしながら、やっぱうまい飯はいいなーなんて。こちらまで嬉しくなる。
こうやって二人であって、話して、また次の約束をする。たったそれだけのことが、俺の中にどれだけの感情を巻き起こしているのか兄さんは知らない。それは顔に出ないからじゃなくて意識的に隠しているからだけれど、そのうち耐えられなくなるんじゃないかって不安にもなる。会うたびに感情を揺さぶられて、それはとても心地のいいものだけど同時に抱える負の感情も確かにあって、でもそれすら「兄さんだから」の一言で許容している自分がいる。
好きだなと、改めて思った。
好きとか、可愛いとか、不安とか、独占欲とか。
俺から感情を奪ったのは兄さんだけれど。
それをまた教えてくれるのも、兄さん、貴方なんだって。
俺にとって、貴方を思う理由はそれだけで十分だって。
いつか伝えられる日を夢見ながら、夜道、次のデートに思いを馳せた。