アンダーカレント
僕はそれが誰の番号か当然知っている。なにせ、幾度もそこから電話がかかってきて、相手と会話をしているのだから。正確に番号をそらんじることは出来ないが、数字の羅列を見ればああ彼だと即座に理解することも出来る。だけど、決して登録はしない。着信拒否もしないけれど、電話がかかってくると瞬時に彼の名前が出るようには設定しなかった。
それは偏に僕らの奇妙な関係のせいだった。僕と彼には性的な関係があった。付き合っている訳ではない。僕は恋愛対象として彼に恋をしていなかったし、大体片思いだが好きな女の子がいた。それなのに、付き合ってもいない人間と―しかも男だ―性的な関係を結ぶだなんて、ありえないことだと普通の人は言うだろう。僕だってそう思う。最低限の倫理感はそなえているつもりだ。でも、僕は彼を拒否したことはなかった。
彼から最後に電話がかかってきたのは二週間ほど前だった。今までは必ず二日か三日の間を空けて電話をかけてきていたというのにぱったりと途絶えたそれは、当然不思議に思うものではあったけれど、僕から電話することはなかった。彼とこういう関係になってから、僕の方から電話をかけたことは一度だってなかったからだ。もちろん、例外はあってしかるべきものだけれども、こと彼との関係に関してはそうしようとすら思わない。与えられたものをひたすら受け入れる待ちの態勢だった。
――けど、もう終わりなのかもしれないな。
チャットではほぼ毎日のように会話もしているが、裏側のことはおくびにも出さず、いつものだらだらとしたことしか話し合わない。まるで僕らの間には何もないと言わんばかりに。もしかしたら彼の方に何らかの思惑があるのかもしれないけれど、だらだらと長引かせてまで続けようとは思わなかった。
だから、僕は着信履歴の全消去というコマンドを選ぶ。本当にするのかという表記がイエスとノーという言葉とともに出て、無心でイエスにカーソルを合わせる。それが、何をもたらすかを知りながら決定ボタンを押そうとしたその時。
手のひらの中で携帯電話が音楽を垂れ流しながら震え始める。いつもの、11ケタが表示され、今正に僕が通話を許可するのを待っている――ワンコール、ツーコール…もし、僕が電話を取らなかったらどうなるのだろう。彼はもう一度かけてくるのだろうか。それとも、もう二度とかけて来なくなるか。どっちだろうと予測してみたが、僕には分からなかった。ただ、先のことが見えないから面白いと思えることもある。
スリーコール、フォーコール。まだまだ電話は鳴り続ける。ファイブ、シックス……今にでもぶつりと切れてしまうかもしれない不安定な音に、結局僕は通話ボタンを押した。画面内の表示は変わり、克明に通話時間を記録し始める。この先に彼がいる。僕を待っている。焦らすようにゆっくりと受話器を耳に近づければ、無音がそこには広がっていた。息づかいも聞こえない。ただの沈黙。それでも、その先に彼がいることは分かっていたので、僕も極力鼻息を抑えながら彼が現れるのを待った。
「やあ、久しぶり」
声は唐突に聞こえてくる。不自然な沈黙をものともせず、まるで今この瞬間に通話を開始したような自然さがあった。これが今回のルールなのだろうと僕は思った。彼はいつも独りよがりな世界を作って僕にそれを強いる。ルールは大体の所、何かを隠すために用意された。臭いものには蓋、の精神だろうか。お互いにいやなものがあるとは想像もしていないような顔をして、上っ面だけの会話を交わすのだ。
「こんにちは、どうしました?」
「いや、ちょっと声が聞きたくなってね。今、大丈夫かな?」
「はい」
それから、彼はどうでもいいようなことを一人で語っていた。仕事とか、私生活とか、そんなところだ。僕はそれに逐一丁寧に言葉を返し、耳を傾け続けた。何も考えずに。
触れたら負けだった。知らないふりをしなくちゃいけない。それが、何なのだか僕は知りながら、とりあえず見えないふりをしなくちゃいけないのだ。
「帝人くんはどう最近?」
「特には。いつもと何も変わりません」
「そう。でも、平穏が一番だよね。慌ただしい非日常も時々巻き込まれるくらいなら、退屈ばらしにうってつけなんだろうけど、ずっと浸っていると駄目だね。疲れるよ。君だってそう思うだろう?」
「そう、かもしれないですね」
毒にも薬にもならない平素な相づちを。たぶん、顔は見えなかったが、彼は嬉しそうな顔で笑っていると思う。愉悦に浸り、嘲り、愛おしそうに。どれもが矛盾しあう感情をすべて並べ揃えて僕に提示しておきながら、それに気が付かない彼を想像すると、僕の唇に自然と笑みが浮かび上がってくる。彼は僕にはいい人で、僕が知らない場所ではただの悪人なんだろう。今、ちらほらと僕の元にやってくる情報はその真実をそっと浮かび上がらせている。でも、僕は知らないふりをする。
「帝人くん」
「はい」
「今から会おうか」
「いいですね」
僕には何でも出来る。この通話をたった切ることも、この電話番号を拒否することも、なんでも。でも、しない。今は、まだ。
「楽しみです」
「そう? もしかして、俺に会いたかったりしたのかな?」
「そうです、って言ったらどうします?」
「へえ、言うね帝人くん・・・そうだな、とりあえずありがとうって言うかな」
「あはは、それじゃあ、また後で」
通話が切れ元の履歴画面に戻ったところで、一番上に置かれた彼の番号を見つめる。が、結局何もしないで待ち受け画面に戻った。
しめしめ、なんて思っているのかな。たぶん、自分が描いた通りの絵になっていることに悦になっているのかもしれない。彼の本当の裏の顔をきちんと見たことがないからこれはただの妄想なんだけれど、そんな彼がとても可愛いと思える。まあ、そうじゃなくちゃ、彼には付き合えないんだろうけど。
「さて、と」
携帯電話をポケットに入れて、家から出た。歩きながら、大したことは考えていなかった。待ち合わせ場所に行って、彼と会って、それからすることなど脳味噌のどこにも存在していない。僕が考えていたのは、おそらく彼のことを愛しているのだろうな、ということだけだった。