記憶よ、永遠に。【ドラマ JIN‐仁‐】
「お、南方、調子はどうだ?」
「特に問題はない」
「そうか。後遺症っぽいのも?」
「ない。大丈夫」
「ま、お前が言うなら大丈夫だろうな。患者が医者だと術後経過を見るのも楽でいい」
「なんだよそれ、職務放棄じゃないか」
「うるせーな」
問診をしに病室に入ってきた杉田が、笑いながら手元のチェック表を埋めていく。
錦糸町の公園付近で頭に大きな傷を負って倒れていた。そんな俺を見つけた誰かが救急車を呼び、緊急搬送された東都大学附属病院で手術をしたところ、偶然にも腫瘍を発見し、それも切除した。杉田の話ではこういう設定に切り替わっていたようだ。
俺が江戸時代へとタイムスリップしたという証拠が、一つも残らずばっさりと消去されている。俺の頭にいた胎児性腫瘍も、その時に着ていた着物も、俺を俺が治療したという事実も、タイムスリップの証拠となりえる全てのことが、他の何かにすり替わっているようだった。
「よし、じゃあくれぐれも安静にしててな」
「んー」
杉田はそう言って病室から出ていった。
俺の入院している病室には、他の患者は入っておらず、目の前や真横のベッドはシーツがきれいに敷かれているだけだった。
そのため、杉田と看護師がいなくなると俺一人の寂しい部屋になる。白い光を放つ蛍光灯と風に揺れる青白いカーテンがさらにその寂しさを増長させる。
「…咲さん」
ふいにその名前を呟く。
結局彼女は助かったのだろうか。俺がホスミシンを届けるという約束を果たせずこの時代に残ってしまったということは、つまりは…そういうことなのだろうか。
“私はなんでこんな野暮なんでしょう…一番助けたい人には…結局何もできん…”
佐分利先生の言葉を思い出した。
俺は、一番助けたい人を、また助けられなかったのかもしれない。
江戸時代に行ったところで一つも成長できなかったということか、それともタイムスリップした最大の目的を達成することができなかった俺への罰か。
俺は江戸時代に行ったところで神でも何でもなかった。ただの人間だ。そして野暮な医者だった。助けたいと思う人を助けることができない、小さくて野暮な医者だった。
今さら気づいたわけじゃない。ただ、何も変わっていない自分自身がとにかく憎かった。
「…南方先生」
研修医の野口が病室の扉から顔を出し、俺に声をかけた。
小さく返事をして手で合図をすると、一礼をして部屋に入ってくる。
「大丈夫、ですか」
「平気だよ」
「あ、そうですか…よかったです」
「心配かけてごめんね」
野口が何か言いたそうに俯いた。
「ん?なんかあった?俺に用があってここ来たんでしょ?」
試しに聞いてみると、「気になってたんですけど…」と切り出した。
「先生はなぜ頭に切り傷を負って公園に倒れていたのですか?…誰かに襲われた、とか?」
「んー、それはね」
さすがに、山で武士たちに斬られたままタイムスリップして現代に戻ってきたから、とは言えない。
「倒れたショックで全部忘れちゃったんだよね。なんであそこにいた、とかも覚えてないし」
「え…記憶障害、ですか」
「まぁ軽くね。でもそこまで心配することないから、大丈夫」
「でも!!」
「でも?」
「…いえ、何でもありません」
野口の疑問は当然のことだ。なぜ俺はこんな都心で頭に傷を負い、倒れていたのか。明らかに事件が起きたとしか思えない状況なのに警察からの報告はない。それはいったいなぜなのか。
ただ、説明できないことをどう説明しろというのだろう。タイムスリップの証拠がすべて消えた今、俺には無理な話だ。
「…野口」
「はい、なんでしょう」
「野口はタイムスリップとか信じる人か?」
「タイムスリップ、ですか」
「そう。例えば、階段から落ちた衝撃で意識が飛んで、目を覚ましたら違う世界にいた、みたいな」
「…そんな話は小説の中でしか見たことがないので信じるか信じないかで言われると信じていません」
「だよな、ごめん、変なこと聞いて」
「いや、でも、当たり前と思っていたことが当たり前ではないこともあるとは思っています。天動説が当たり前とされていた時代もあったのに、実際は地動説の方が正しかった、みたいに。タイムスリップだって、今はそんなことなんてあるわけがないと考えるのが当たり前ですが、未来ではその当たり前が覆っているかもしれない」
「そうか…そうだよな」
当たり前と思っていたことが未来では当たり前ではなくなっている。
その通りだと思った。
江戸の街並みを当たり前と思っている人たちがこの東京を見たら、どんなに驚くだろうか。
龍馬さん、吉原はないんですよ。戦争もありません。
空には飛行機が飛んで、道には車が走って、線路には電車と新幹線が走ってます。
治せる病気だってすごく多くなって、きっと、龍馬さんをあっと言わせられる…そんな世の中になってます。
頭で思い浮かべながら窓の外を眺めた。きっと、龍馬さんは今もそばで見ている。そんな気がしていた。
その時、野口の胸ポケットに入っている無線が音を鳴らした。要請が入ったのだ。
「あ、すみません」
野口は無線を耳に当て、指示を聞く。だんだんと深刻な顔になっていった。患者の容体が悪化した、みたいなことだろう。
「いいよ、早く行きな」
「ありがとうございます、失礼します」
また一礼して、野口は部屋を出ていった。
“タイムスリップだって、今はそんなことなんてあるわけがないと考えるのが当たり前ですが、未来ではその当たり前が覆っているかもしれない”
当たり前を当たり前じゃなくする、よく考えてみれば俺が江戸時代でさんざんしてきたことだ。
なら、現代でも何かできるんじゃないのか。
どうにかして、この不思議な体験を形にする、歴史の修正力に抗うための何かしらの手段…
“…そんな話は小説の中でしか見たことがないので信じるか信じないかで言われると信じていません”
小説…
そうか、小説なら文字におこして後の世にも遺すことができる。
今の時代ではまだただの小説にしかならないかもしれないが、未来ではそれが何かの資料になるかもしれない。
時間ならいくらでもある。これから三週間ほどベッドの上でじっとしていなければならないのだ。その間に書けばいい。
俺は、ある医者が江戸時代にタイムスリップして江戸の人々を救いながら奮闘するという内容の小説を書くことを決めた。
作品名:記憶よ、永遠に。【ドラマ JIN‐仁‐】 作家名:手似ヲ羽