小説版アマガミ ~森島先輩はそこにいる~
両腕に抱えている売店のパンが入った紙袋は、いつもより重かった。
一人分ならまだしも三人分ともなると、小さめの紙袋に容量ギリギリまで入れることになってしまうために口が開いてしまっている。廊下を通り抜けながら、口からはみ出しているパンの上に乗ったパンを落とすまいと、腕で微妙に紙袋のバランスを調整する。その度に両腕の間から「パリッ」と紙独特の音がする。
腹が鳴った。すごく小さな音だったからたぶん誰にも気づかれてはいないと思う。昼休みにこんなにたくさんのパンを持って腹を鳴らして早歩きで歩いていたら、どんだけ食いしん坊なやつなんだと思われるだろう。そんな妙な気恥しさを感じていると、突然、つま先を段差にひっかけてしまい、前のめりで膝から廊下に落ちてしまった。我ながら格好悪い。梅原と薫のおつかいに出された挙句このざまかよ……。そんなことを考えながら散乱したパンを一つずつ拾う。
すると、柔らかで澄み切った声が僕の耳を一瞬の内に通り過ぎた。まるで花びらが春の微風に乗ってふわりと耳元で落ちるような心地よい響きだった。そんな音がすぐ近くで聞こえたと思う間に、気づけばすぐ目の前に上靴を履いた人が立っているのが俯きながらも視界に入った。咄嗟(とっさ)にこの人は僕に話しかけているんだと思って視線を上げた……のはいいが顔を刹那の内に上げれば上げるほど目の前の景色が信じられなかった。
ほどよく引き締まった二つの脚が黒い靴下で覆われておりそれが却って慎ましさと上品さをうまく織り交ぜている、そんな足元が見えたと思うと、雪の色と柔らかな感触を溶かし込んだかのような滑かな肌の太腿が現れ、もうその時点で女性だと直感し、その太腿の曲線が滑るように行き着く先にほの暗い灰色に白線が二本引かれた見慣れたスカートが見えた時、どこかの女子生徒なんだと思った。それから上は大方予想通りの光景が連続していったが、腹部を超えたあたりからただならぬ予感を感じ、その見慣れぬ急激な隆起はとある衝撃の暗示を与えた。さらに、潤いを染み込ませた黒い絹が蔦(つた)のように何か棒状のものに巻き付いたとしたらさもあろうかというような何度もカールした黒く長い髪が顔から伸びている。その顔は、見慣れた、などというものではなかった。知っていて当たり前だった。おそらく、この学校のほとんどの人間が知っているのではないかというような、有名な唯一無二の優雅がそこにはあった。
透明な声の主は彼女だった。目の前のこの人……顔を見たことがあるかはさておき名前を知らない人はこの学校にはいないだろう。そんな人を今、僕は地面に這いつくばった状態で見上げている……そして彼女は僕を見下ろしている、興味深そうに。彼女はさらに口を動かし何事かを喋った。やはりその声は瑞々しく、高い音程で歌うようだった。
僕は激しく混乱した。あの、学校一のマドンナと呼ばれている、高嶺の花である「森島先輩」と面と向かって喋っている! 何とか普通に先輩との会話が成立するよう平静を装うとしたが、目の前の出来事に対する処理が追い付かず、しどろもどろだった。
すると突然、先輩は文字通り目の色を変えて僕の顔を眺めてきた。どうやら僕の目が気になるようだ。そんなにまともに見られたら困る。恥ずかしい。
僕がどぎまぎして視線を下に落とすと、また通り抜けるような声で目を合わせるように促してきた。うう……、緊張する。先輩の顔をまともに見て会話するだけじゃなくてこんなにしっかりと目と目を合わせるなんて……。
視線を上げて先輩の瞳に焦点を合わせた。大きくて、優しげで、形は、丸みを帯びているけれどどこか鋭さを隠しているよう。それに、まるで、宝石のようにたくさん光を反射している。そんな瞳を、数秒か、もしかしたら数分かもしれない間眺めて、緊張と驚きを同時に覚えた。
そして先輩は去って行った。僕の目の前から。ああ、いい匂いだ……。嗅いだことのない、一面花畑を連想してしまいそうな、いい香り。先輩の去り際に残した残り香が僕の鼻に優しく触れる。これまでの人生において僕を包んでいた空間が塗り替えられて、全く新しい世界がそこに開けたのを感じた。それはまるで未知を既知に変えた時の喜びがにわかに奥からやってくるようだった。
自分の存在そのものをも脅かすほどの先輩の香りは、これからの学校生活が信じられないほど大きく変わってしまうかもしれない、そんな予感を夢見心地の中で抱かせるものだった。
「なーにぼーっと外の景色なんか眺めちゃってんのよ。柄にもないことして。俳句でも作る気?」
そう言いながら声の主は僕の視界の右端で椅子に座ったのが分かった。
幸せな考え事をしながらぼんやり膨らませていたふわふわした風船を一刀両断されて微妙に不快感を覚えながら、
「なんだ薫か……」
とクラスメイトの棚町薫にわざとだるそうに答えた。
「なんだとは何よー。何か悩みでもあるの?」
「あ、それとも妄想? ごめん、邪魔しちゃったかしら」
内心少し照れながらも「そんなわけないだろ」と躍起になって返した。薫は妙に鋭い時がある。
「そこお前の席じゃないだろ」と照れを誤魔化すように少しぶっきらぼうに言った。
「いいじゃない、ちょっとぐらい」
と言って声の主へ視線を向けた時、明らかにただの男子生徒と女子生徒の距離感をだいぶ間違えた近さに、薫の目と鼻があった。僕と同じように机に肘を突きながら手の平に顎を乗せた状態で、そのまま僕を真っ直ぐに見据えていた。
「ちょっとなんだよ。近いなぁ!」
「あ~ん、つれないこと言わないでよ~。あんたと私の仲なんだからさ~」
と、わざとらしく甘ったるい声で薫が返すと、どこからともなくまた聞き慣れた声がした。
「いや~橘さんと棚町さん、相変わらず仲の良いことですねぇ~」
薫と同じくクラスメイトの梅原正吉が近づいて来た。僕と薫とのいろんな意味での距離感の近さについて半ば感心したように、半ば呆れたようにして言った。
「いつもそんな風にいちゃいちゃしてたら恋人同士みたいだぞ。クラスの中でも、お前たちが付き合ってるんじゃないかって噂してるやつもいるほどだからな」
「ええっ! 私と純一って付き合ってるんじゃなかったの? 中学の頃から付かず離れずを繰り返し、幾度となく隠れた愛を確かめ合って、高校生になって今までで一番あなたと近いところに居られてる。ねぇ、そうでしょ、ダーリン?」
「……自分で言ってて恥ずかしくないか?」
「あははは! 今のはちょっと恥ずかしかった!」
「顔がちょっと赤くなってるじゃないか。マジっぽくなるから、勘弁してくれよ。」
薫が本心じゃなくふざけて言っているのは百パーセント分かっているのに、言われた本人の僕の体が熱くなってしまっているのにきまりが悪くなって、
「ほら、そろそろ授業始まるぞ、席に帰れよ」
と次の授業の準備のために次第に静まり返りつつある教室内を一瞥(いちべつ)しながら言った。
この感じ……久しぶりだ。誰かのことを考えて心が浮つくというか……こうやって授業を聞いていても先生の声も耳に入らなくて、教科書の文章も別のことで頭が溢れ返りそうになっているせいで入って行かない感じ。
一人分ならまだしも三人分ともなると、小さめの紙袋に容量ギリギリまで入れることになってしまうために口が開いてしまっている。廊下を通り抜けながら、口からはみ出しているパンの上に乗ったパンを落とすまいと、腕で微妙に紙袋のバランスを調整する。その度に両腕の間から「パリッ」と紙独特の音がする。
腹が鳴った。すごく小さな音だったからたぶん誰にも気づかれてはいないと思う。昼休みにこんなにたくさんのパンを持って腹を鳴らして早歩きで歩いていたら、どんだけ食いしん坊なやつなんだと思われるだろう。そんな妙な気恥しさを感じていると、突然、つま先を段差にひっかけてしまい、前のめりで膝から廊下に落ちてしまった。我ながら格好悪い。梅原と薫のおつかいに出された挙句このざまかよ……。そんなことを考えながら散乱したパンを一つずつ拾う。
すると、柔らかで澄み切った声が僕の耳を一瞬の内に通り過ぎた。まるで花びらが春の微風に乗ってふわりと耳元で落ちるような心地よい響きだった。そんな音がすぐ近くで聞こえたと思う間に、気づけばすぐ目の前に上靴を履いた人が立っているのが俯きながらも視界に入った。咄嗟(とっさ)にこの人は僕に話しかけているんだと思って視線を上げた……のはいいが顔を刹那の内に上げれば上げるほど目の前の景色が信じられなかった。
ほどよく引き締まった二つの脚が黒い靴下で覆われておりそれが却って慎ましさと上品さをうまく織り交ぜている、そんな足元が見えたと思うと、雪の色と柔らかな感触を溶かし込んだかのような滑かな肌の太腿が現れ、もうその時点で女性だと直感し、その太腿の曲線が滑るように行き着く先にほの暗い灰色に白線が二本引かれた見慣れたスカートが見えた時、どこかの女子生徒なんだと思った。それから上は大方予想通りの光景が連続していったが、腹部を超えたあたりからただならぬ予感を感じ、その見慣れぬ急激な隆起はとある衝撃の暗示を与えた。さらに、潤いを染み込ませた黒い絹が蔦(つた)のように何か棒状のものに巻き付いたとしたらさもあろうかというような何度もカールした黒く長い髪が顔から伸びている。その顔は、見慣れた、などというものではなかった。知っていて当たり前だった。おそらく、この学校のほとんどの人間が知っているのではないかというような、有名な唯一無二の優雅がそこにはあった。
透明な声の主は彼女だった。目の前のこの人……顔を見たことがあるかはさておき名前を知らない人はこの学校にはいないだろう。そんな人を今、僕は地面に這いつくばった状態で見上げている……そして彼女は僕を見下ろしている、興味深そうに。彼女はさらに口を動かし何事かを喋った。やはりその声は瑞々しく、高い音程で歌うようだった。
僕は激しく混乱した。あの、学校一のマドンナと呼ばれている、高嶺の花である「森島先輩」と面と向かって喋っている! 何とか普通に先輩との会話が成立するよう平静を装うとしたが、目の前の出来事に対する処理が追い付かず、しどろもどろだった。
すると突然、先輩は文字通り目の色を変えて僕の顔を眺めてきた。どうやら僕の目が気になるようだ。そんなにまともに見られたら困る。恥ずかしい。
僕がどぎまぎして視線を下に落とすと、また通り抜けるような声で目を合わせるように促してきた。うう……、緊張する。先輩の顔をまともに見て会話するだけじゃなくてこんなにしっかりと目と目を合わせるなんて……。
視線を上げて先輩の瞳に焦点を合わせた。大きくて、優しげで、形は、丸みを帯びているけれどどこか鋭さを隠しているよう。それに、まるで、宝石のようにたくさん光を反射している。そんな瞳を、数秒か、もしかしたら数分かもしれない間眺めて、緊張と驚きを同時に覚えた。
そして先輩は去って行った。僕の目の前から。ああ、いい匂いだ……。嗅いだことのない、一面花畑を連想してしまいそうな、いい香り。先輩の去り際に残した残り香が僕の鼻に優しく触れる。これまでの人生において僕を包んでいた空間が塗り替えられて、全く新しい世界がそこに開けたのを感じた。それはまるで未知を既知に変えた時の喜びがにわかに奥からやってくるようだった。
自分の存在そのものをも脅かすほどの先輩の香りは、これからの学校生活が信じられないほど大きく変わってしまうかもしれない、そんな予感を夢見心地の中で抱かせるものだった。
「なーにぼーっと外の景色なんか眺めちゃってんのよ。柄にもないことして。俳句でも作る気?」
そう言いながら声の主は僕の視界の右端で椅子に座ったのが分かった。
幸せな考え事をしながらぼんやり膨らませていたふわふわした風船を一刀両断されて微妙に不快感を覚えながら、
「なんだ薫か……」
とクラスメイトの棚町薫にわざとだるそうに答えた。
「なんだとは何よー。何か悩みでもあるの?」
「あ、それとも妄想? ごめん、邪魔しちゃったかしら」
内心少し照れながらも「そんなわけないだろ」と躍起になって返した。薫は妙に鋭い時がある。
「そこお前の席じゃないだろ」と照れを誤魔化すように少しぶっきらぼうに言った。
「いいじゃない、ちょっとぐらい」
と言って声の主へ視線を向けた時、明らかにただの男子生徒と女子生徒の距離感をだいぶ間違えた近さに、薫の目と鼻があった。僕と同じように机に肘を突きながら手の平に顎を乗せた状態で、そのまま僕を真っ直ぐに見据えていた。
「ちょっとなんだよ。近いなぁ!」
「あ~ん、つれないこと言わないでよ~。あんたと私の仲なんだからさ~」
と、わざとらしく甘ったるい声で薫が返すと、どこからともなくまた聞き慣れた声がした。
「いや~橘さんと棚町さん、相変わらず仲の良いことですねぇ~」
薫と同じくクラスメイトの梅原正吉が近づいて来た。僕と薫とのいろんな意味での距離感の近さについて半ば感心したように、半ば呆れたようにして言った。
「いつもそんな風にいちゃいちゃしてたら恋人同士みたいだぞ。クラスの中でも、お前たちが付き合ってるんじゃないかって噂してるやつもいるほどだからな」
「ええっ! 私と純一って付き合ってるんじゃなかったの? 中学の頃から付かず離れずを繰り返し、幾度となく隠れた愛を確かめ合って、高校生になって今までで一番あなたと近いところに居られてる。ねぇ、そうでしょ、ダーリン?」
「……自分で言ってて恥ずかしくないか?」
「あははは! 今のはちょっと恥ずかしかった!」
「顔がちょっと赤くなってるじゃないか。マジっぽくなるから、勘弁してくれよ。」
薫が本心じゃなくふざけて言っているのは百パーセント分かっているのに、言われた本人の僕の体が熱くなってしまっているのにきまりが悪くなって、
「ほら、そろそろ授業始まるぞ、席に帰れよ」
と次の授業の準備のために次第に静まり返りつつある教室内を一瞥(いちべつ)しながら言った。
この感じ……久しぶりだ。誰かのことを考えて心が浮つくというか……こうやって授業を聞いていても先生の声も耳に入らなくて、教科書の文章も別のことで頭が溢れ返りそうになっているせいで入って行かない感じ。
作品名:小説版アマガミ ~森島先輩はそこにいる~ 作家名:美夜(みや)