幸福な子供
「大丈夫そうね。丈も、合っているし」
ゆっくり袖を通す月の姿を確かめるように見守って、母が言う。ん、と小さく返事をした月はうわの空で、しきりにネクタイの結び目を気にした。
馴染まない気がするのは父の喪服を借りているからというより、喪服じたいに縁が薄いせいだ。手首にかけた数珠も重く、違和感がある。
告別式に出るのは二度めだった。
久しぶりの山元からの電話で高校の同級生の訃報を知った。クラスメイトだったとはいえそれほど接触はなかった女子生徒で、名を言われても卒業アルバムを引っ張り出して確かめるまで月は顔を思い出せなかった。
小雨が降って肌寒い中、黒い蝙蝠傘を差して歩く月の後ろをいつもどおりリュークがついてくる。死神を連れて行くなんて洒落にならないな、と月は本気で思った。
心得ているのか、リュークも何だか大人しい。受付で記帳を済ませ袱紗から香典を取り出す月の様子や、黒ずくめの人々や、無彩色の花輪やなんかを面白そうに見てはいたが、月に話しかけてはこない。
途切れることのないすすり泣きの合間を縫って、読経の声が高く低く響く。人々は一様にハンカチを目に押し当てている。空気の重さと痛ましさに、正直なところ月は少し驚いていた。小学校にあがるかあがらないかの頃のことでもうおぼろげにしか覚えていないけれど、祖父の葬儀はもっとあっけらかんとしていたように思う。月の祖父はほとんど大往生のように逝ったと聞かされている。
心から悲しんでいる人々に囲まれて焼香の順番を待ちながら、特に何の感慨もなく涙も出てこない自分に、月は罪悪感に近い居心地の悪さを感じて戸惑った。戸惑いが苛立ちに変わってしまいそうなので月は考えることを止め、この場にふさわしい沈痛な表情をつくることに専念した。
人が死んだときどういう顔をすればいいのか、月は忘れてしまっている。
見よう見まねでそつなく焼香を終えて外へ出ると、山元の姿があった。彼のほうでも月に気付いて、軽く手をあげた。
「同じクラスの女子も何人か見かけたんだけど、皆わあわあ泣いててさ、声かけられる雰囲気じゃなかったよ」
傘の陰が落ちて、山元の顔が暗い。月は目を伏せて頷いた。
「月と一緒で彼女も法学部でさ、弁護士になるっつって頑張ってたらしいよ。それがこんな……ショックだよなあ」
「……しかし、何でまた急にこんなことになったんだ?」
「それがさあ……なんか、心臓発作とかそんな感じっぽいんだよ」
「ウホッ」
背後でリュークが吹き出した。思わず月も目を見開く。
山元は言いにくそうに声を落とした。
「もちろん何の関係もないってわかってるけどさ、時機的にちょっと……嫌だよな」
「気の毒に、運が悪かったな」
斎場をあとにしてひとり、地下鉄に乗ったところでリュークが呟いた。
たまには人間の名前でも書くかと、気まぐれに下界をのぞいた死神の目にとまってしまったのだろう。怠惰な死神は、それらしい死因を書くのさえ面倒だったのだろうか。
何だか虚しい。不意にそう思った。
初めてデスノートを使った夜、必死で家に帰り着いて、月は吐いた。一晩中、布団の中で震えを止められずにいた。
目の前で人間が無残に死んだ、その情景は脳裡に焼きついて離れず、月を苦しめた。
今はもう、ノートに名前を書くことに苦痛もためらいもないが、恐怖で眠れなかった日々を忘れたわけではない。
人が死ぬということを軽んじたことなど、一度もない。
ノートに名前を書く、たったそれだけのことで命が失われることを虚しく思ったことも、ない。
捜査本部に行く予定の日だったので、そのままの格好で顔を出した。
松田に伴われて月が部屋に入ると、例の姿勢で椅子に座っていたLが、珍しいものを見るように喪服姿の月を見た。黒い目を見開いて、まばたきもそらしもせずにじっと見る。Lの視線はいつでも対象を観察するようにまっすぐで、遠慮がない。
「なんだ月、そんな格好でどうしたんだ」
ここでは捜査本部の長であるはずの父が、完全に父親の顔で問うた。
「高校時代のクラスメイトが亡くなったんだ。急だったから父さんの喪服を借りたよ」
「こんなときにまで来てもらって、ごめんね」
心底すまなそうに松田が言う。迎えに出てきたときから、松田は鬱陶しいほどに月を気遣っている。
「いいえ、こちらこそ着替えもせずに、すみません」
「構いません。似合っていると思います」
Lが言った。気遣いを一瞬で無効にする発言に、あからさまに松田がぎょっとする。
月は苦笑してみせた。
「……こんな格好似合うなんて言われても、嬉しくないな」
「そうですね。すみません」
Lは首を傾げるようにして月の顔をのぞきこんだ。
「月くんがあまりにも平静に見えたので、知人を亡くされたということを失念していました」
「いや……友達といってもそう親しかったわけじゃないしね、正直、悲しい、というよりはただ驚いてるんだ。なんだか実感も湧かないし」
「月くんの年齢だと、大切な人に先立たれた経験はまだあまりないかも知れませんね」
「そうだね。有り難いことに、ないよ」
正直な答えだった。
ようやく月から目線を外し、ティーカップをつまみあげるLの背中を、月はじっと見つめた。
Lが死んだらどうなるのだろう。
ふと、月はそんなことを思った。Lを殺す手段で頭がいっぱいで、そのあとのことなど考えたこともなかった。
葬儀は行われるのだろうか。名前も顔も、存在すら極秘にされている男の葬式なんて想像がつかない。死んだことさえ秘されて、闇から闇へと葬られるのだろう。あるいは「L」という存在は肉体をもたぬまま警察機構に君臨し続けることだって有り得る。
確かなのは、目の前で丸まっている見慣れた背中が焼かれて白い骨になり、二度と見ることができなくなるということだけだ。
それがどういうことか、月にはうまく思い描けなかった。
……いや、そんなことはどうでもいいことだ。月がすべきことは目の前の男の名前を探り出してノートに書くことだ。とにかく今は、それだけを考えなければ。
キラが神として君臨する新世界に、Lは存在してはいけないのだから。
キラは、まだどこか純粋さを持っていて何不自由なく暮らしている裕福な子供、そして死を知らない幸福な子供。