そうやってひとつに溶けてしまえば良い
ら、という口を作りかけた三郎はその言葉を飲み込む代わりに、近くの梁をこつり、と爪の先で弾いた。それは、虫の鳴き声の様に囁かな音だったが、忍術の修行をしている雷蔵が目を覚ますのにその音は充分だった。直ぐに頭を上げた雷蔵は三郎の顔を見て、幾分、訝しげな表情を見せたが、自分の頬に触れる指の骨張った感触を頬の皮膚で感じている。雷蔵はぼんやりとした頭の中で、ややあって、三郎が帰って来た事を知った。
「おかえり」
「ただいま」
三郎の、いつもの少年とは思えないほどの低く、穏やかな声音をで聞きながら、雷蔵はそっと三郎の居る戸口に膝をすって彼の近くまで近づいていった。腰を落として雷蔵に近づけたその顔は月明かりで影を落とし、三十にも四十にも年を取っているかの様な深い影を落としている。知らない顔が疲れ果てた様に雷蔵の前で項垂れたいた。雷蔵は、その顔の輪郭を探る様にして、腕をいっぱいに伸ばしてその頬に触れる。するすると、下に降りていく様に自分とは違う作られた頬を壊さない様にそっと撫でている。
「今日は、誰?」
顎を両手で包み込み、すこし押し上げる様にして、自分の視線に三郎の視線を合わせる。知らない大きな目が、きらきらと月の光を反射させている。
「知らない。多分、そこに仕える下男だ。名前も聞く間も無かった。」
じっと、目を背けず、身じろぎもせずに三郎は答えていく。三郎が話すたびに雷蔵の手の中で、顎の骨だけが別の生き物の様に動いていた。
少し肌寒い空気が部屋の中を漂い始めている。雷蔵は三郎に身を寄せながら、話を聞いている。三郎の細い体躯が寒さのせいか、また別の物のせいか、僅かに震えていた。雷蔵の知らないその男の特徴である黒々とした大きな目がしっとりと濡れて始めている。
「懐に二本の簪が入っていて、一本は酷く小さかった。」
「うん、」
「子供が居たんだ、きっと」
「うん」
「でも、仕方ない。彼は間が悪かったとしか言いようが無い」
「うん」
人を殺めた日の三郎は饒舌だった。その独り言の様に三郎が話すのを雷蔵はいちいち、丁寧に相づちを打った。緩い光の中、月の僅かな光源の中を探りながら雷蔵は三郎の知らない輪郭を目を凝らしながらすこしでも本来の形状の欠片を探す様に、じっと眺めていた。けれども雷蔵は、三郎の顔を知らない。
「ねえ、雷蔵」
「ん?」
「私は誰?」
その問いは、もう何回も雷蔵に問われた問いだった。
「鉢屋三郎。」
だけど、彼が彼である、その答えは、雷蔵の中の中の部分で本能で、理解している。今目の前にいる雷蔵の知らない男は、鉢屋三郎と言う名の少年だと彼はちゃんと知っている。三郎は、雷蔵の手から顔を離して、懐から出したそれをふわふわの猫っ毛の雷蔵の髪に差し込んだ。その仕草を雷蔵は止める事無くただじっと終わるのを待っている。ややあって、その簪が髪の中に収まると三郎は、 「うん、うん」と二三度頷いていた。
赤い小さな飾りを付けた質素な簪であった。
雷蔵は、その簪の感触を指先で、感じながら、その男の事を思った。弔う様に雷蔵は、その簪を自分からは外さなかった。
「似合う?」
と冗談めかして三郎に聞くと三郎は笑って、
「似合わないな」
「当たり前だろ、男なんだから」
といって、目を見合わせて笑った。
それから、その簪をするりと三郎は抜くと、
「派手さは無いけれど、良い簪だ。」
「ああ」
「持ち主の気持ちが凄く良く出ている。」
月明かりに一つ一つの細工を照らしながら眺めていた。近づいた雷蔵の頬にその影が落ちる。
「私はそこまで、彼にはなれない、」
三郎の口から零れ出た、冷えた言葉の真意を尋ねようとした雷蔵の口が動く前に、三郎は立ち上がると庭に向かって二つのそれを投げた。きらりと鈍い光と供にそれは闇へと消えていった。
「あ、」と雷蔵は声を出す暇もない。一瞬の出来事だった。
振り返ったその顔は通常の自分のそれで、艶かしい笑いを口元に含んでいた。それから、信じられないほどの強い力で、雷蔵は三郎の元に引き寄せられた。抱きしめられた体が、みし、と小さな軋みを立てた。苦痛に歪む雷蔵の顔を見ずに肩口にくぐもった声を漏らしながら三郎は続ける。
「ねえ、どうすれば、私は鉢屋三郎で居られる?」
雷蔵は抱きしめ返す事でしか、それに答える術を知らない。代わりに、お互いの体に隙間を無くす様にして抱き返す。もう二度と離れてしまわない様に。それは祈りにも似た仕草だった。沈黙の中で三郎が、鼻を啜った音が暫く雷蔵の耳から離れなかった。
作品名:そうやってひとつに溶けてしまえば良い 作家名:清川@ついった!