お願いだから来ないで、
暫くして、縁側の唐紙の近くに人の気配を感じていた。直感だが、誰が縁側にいるのかわかった。久々知だろう。不思議な事に久々知が自室に向かってくる日が、朧げながら竹谷には分かると言う事がよくあった。
西日を全身に受けて、その長い影を竹谷の腹辺りに落としている。竹谷は、振り返りもせずに、ただ一言、
「入ってこいよ」
とだけ言った。音も無く、気配だけが側に近づいてくる。横腹のあたりに添えられた手は、冷たかった。暫く、二人は黙っていた。竹谷が、目だけを向けると久々知と目が合った。不意の出来事だったので、お互いに気恥ずかしさがこみ上げてくる。先に目を逸らしたのは竹谷だった。 視線が外れると久々知は首を捻って庭の方に目をやった。西日が眩しいのか、目を細めている。白い首筋に、出て来たばかりの喉仏に淡い影が出来ていた。
「今日、実習先で桜が咲いているのを見たんだ」
「もう桜か、早いな」
竹谷は、体を起こして庭の方に目を向けた。視界の先には桜は無いが、久々知は竹谷の仕草を見て困った様に笑う。
「実習先で見たって言っただろう。長屋の庭先のはまだだって」
竹谷は上目遣いに飽きれた様に言う久々知を見ている。一気に詰まらなさそうな表情になった竹谷はそのまま体を起こして胡座を組んだ。足首を掴みながら、体を前後に揺らしている。
「もう春だな、一年と言うのは早い」
視線を庭に向けながら言った。久々知も竹谷の視線を追う様に庭先に向いている。日は沈みかけていた。竹谷と久々知の顔が濃い影を落とし始めている。夕日の赤は薄れていた。
「実習は上手くいったのか」
「その場で合格を貰えたよ、これで私も春からは立派な忍者だ」
安堵した様な表情で久々知は言った。竹谷が、何も言わなかったので独り言の様な形になっていた。代わりに、竹谷の体を揺する仕草が止んだ。久々知はどちらにも気にする風も見せず、冷たくなっている自分の手を見つめながら開いたり閉じたりしていた。
「八左はもう、合格したんだったっけ?」
「昨日終わった。春が来たら、俺も忍者」
日は完全に落ちていた。竹谷は、暗い部屋の中で月明かりに照らされ始めた庭を見つめていた。久々知は、何か言いたげな目で、竹谷の横顔を見つめている。竹谷は久々知の視線と目を合わせようとしない。久々知の膝の上で握りしめた手に汗が滲んだ。横目で、竹谷は力がこもって行く久々知の手を見ていた。
暫くして、竹谷は立ち上がると、
「悪い、厠行ってくる」
と言って、縁側の方へ歩き出した。竹谷の後ろ姿を追って、久々知も膝を立てたが、
「すぐ戻ってくるから」
と言ってそれを制した。
音もなく竹谷は縁側を歩いていた。足は厠の方向に向かっていない。暫く歩くと竹谷の姿は一年の長屋の庭先にあった。夕飯の時間が近いからか長屋は静かだった。
竹谷は学園で一番古い桜の木の下に立つと、暫く蕾みを見つめていた。ややあって、手前にあった細い枝を折った。辺りは静かだったからか、乾いた音が通常の場合で折ったときよりも大きく響いて耳に届いた。
暫くして、竹谷は歩き始めていた。体は久々知の待つ六年の長屋とは違う方向に向かっている。 朝になると、桜の木の下に、幾つもの潰れた蕾みと折れた枝が落ちていた。
作品名:お願いだから来ないで、 作家名:清川@ついった!