09:昼下がり、緩慢な風、ゆるやかなあなたのほほえみ(澳門)
「……沙樹、おはよ」
寝起きの声は擦れていた。沙樹の手には、セロハンに包まれたクッキー。セロハンの口は真っ赤なリボンで縛られている。リボン縛りは少しだけ斜めっていて、こういうのを縛るのだって、誰かが手作業でやってるんだろうなあ、と正臣は思う。見えないところで、誰かが生きていて、誰かと繋がっていている。けれど、今この部屋の中で息づいているのは、正臣と沙樹の二人だけだ。時々思う。どうして二人は出会ったのか。出会って良かったのか。けれど、もしも出会わないという選択肢が今更与えられたところで、自分はそれを選びはしないのだろうと知っていた。こんなことを思うのは、窓から射す光があまりにも眩しいからだ。眩しすぎて、今自分が起きているのか眠っているのかすら、曖昧になってしまう。
「おはよう。っていうかもうおそようかな、お寝坊さん」
4時間近く昼寝しちゃってたんだよ、と笑って正臣の頬をつつく沙樹は、白いシンプルなワンピースを着ていた。少し前に、寝巻きの代わりに、と買った物だ。レースの飾りが僅かについたそれを、沙樹はとても気に入ってるらしかった。窓から入ってくる光を反射して、白の眩しさが際だっている。しゅるり、と華奢な指先をくすぐるリボンの赤。まるで、運命の赤い糸のように。随分とロマンチックなことを思いついたものだ、と正臣は自嘲するように、唇で弧を描いた。これぐらい太い赤い糸だったらいいのに。
「……それは沙樹もだろ」
「えー? でも私正臣よりは先に起きたもん」
クッキーを床に置くと、沙樹は膝をついて、空いた手で正臣の髪を撫でる。「はねてるよ」と口にする沙樹に、サンキュ、と返す。目を閉じて、髪を滑る手のひらを、甘受する。
「頭あつくなってるよ、太陽みたいだね」
でも、眩しいのは沙樹のほうだ。そう思ったけれど、今度は口を閉ざした。代わりに、自分の頭の上の手のひらに、自分の手のひらを重ねた。ああ、これは確かにあたたかい。熱は、伝導する。このままだと、また眠ってしまいそうだ。布団は気持ちいいし、日なたも心地良い、そしてなによりも、沙樹がいる。起きて最初に大事な人の声が聞こえるというのは多分、ひどくしあわせなことだ。
「あ、正臣。手、借して」
「……手?」
寝起きで動きの鈍い正臣の腕を引いて、手のひらと手のひらを合わせると、沙樹は二人の左手の薬指をリボンで包んだ。片手が塞がった状態で、けれど指は焦ることなく、綺麗にリボンを交差させて、縛っていく。ただ、やはりリボン縛りは出来ないらしく、本結びではあったけれど。それでも、結び終わると沙樹は、うっそりと笑った。
「正臣の手、いつのまにこんなに大きくなっちゃったのかな」
「沙樹の手は……小さくなったな」
それは比喩でも、沙樹の言うように自分の手が大きくなったからでもないということを、正臣はちゃんと気付いている。入院中、ほとんど動くことがなかったからだろう。手首なんて、今にも折れてしまいそうだ。けれど手以上に、足の筋肉の衰えは、顕著だった。
「このリボン、赤い糸みたいだよね」
おどけた声。本音か冗談かわからないそんな声音に、今までだって随分と助けられた。ゆっくりと身体を起こして、沙樹の額を小突く。
「ばーか、そもそも赤い糸は小指だろー。この場合は、」
「……正臣?」
首を傾げる沙樹を見て、ああそうか、と思う。自分たちは二人とも、不安なのだと。今この小さなマンションの部屋で、正臣が帰ったとき、沙樹はおかえりと言ってくれる。ここが居場所なのだと教えてくれる。けれど多分、安堵する理由はここがホームだからでも居場所だからでもなくて、沙樹がいるからなのだ。最近の自分たちは、前よりもずっと、手を繋ぐことが増えた。ただ、今は一緒にいるだけでいい。正臣は嘆息すると、自分の背中に掛かっていた真っ白なシーツを片手で引っ張った。ぱちぱち、とシーツを被った沙樹が瞬きを繰り返す。
「これがベールの代わり、な」
「わあ……!」
沙樹が感嘆の声を挙げると同時に、風が弱まって、カーテンが部屋に影を作った。シーツを被った顔が、懐かしそうに緩むのを見て、正臣もまた、首を傾けて微笑んだ。左手のリボンは、固く結ばれている。
「なんだか、かくれんぼみたい。……子どもの頃に戻った気分」
「……まだ子どもだよ、俺も、沙樹も」
赤いリボンの結婚指輪。シーツのベールに、シンプルなワンピースのウエディングドレス。二人、ゆるやかに白に沈めば黒髪と金髪が重なって、小さな子どもたちの忍び笑いが部屋に木霊する。
昼下がり、緩慢な風、ゆるやかなあなたのほほえみ(澳門)
正臣と沙樹
作品名:09:昼下がり、緩慢な風、ゆるやかなあなたのほほえみ(澳門) 作家名:きり