無題
ニーアが部屋に入ってきた途端、エミールの鼻に血のにおいが届いた。室内に充満した血臭で軽い吐き気を覚えたが、何でもない振りを装ってニーアに近付く。
「あぁ。ポポルさんの用事で海岸の街まで行って、その帰りにマモノを見かけたから後を追って始末した」
「そう…ですか」
「ここの近くに潜んでたんだ。殺した方がエミールやあの執事も安心だろ?」
「…えぇ、ありがとうございます」
ニーアに近付くほど強くなっていく鉄錆にも似たにおいに、彼はどれだけの返り血を浴びてそこに立っているのだろうかと不安に思う。彼の姿を見ることが出来ないということがもどかしいけれど、どこかホッとしている自分がいるのもまた事実だった。
全身にマモノの返り血を浴び、憎しみに満ちた目をしている彼の姿を真正面から見る勇気は、今の自分にはまだない。
数年前に初めて会ったときの彼が纏っていた明るく澄んだ空気は、今や暗く淀んだものとなってしまっている。それが哀しくて、辛かった。
「…なぁ、エミール」
疲れきったような掠れた声がエミールを呼ぶ。
それに眉を寄せながら、エミールは顔を上げた。
「はい、何ですか? ニーアさん」
「ピアノ、弾いてくれないか」
「…え?」
「エミールのピアノを聴いてると、何だかホッとするんだ」
彼の纏う空気がふわりとやわらかくなった気がする。きっと微笑んでくれているのだろうと思うと、自然と笑みが零れた。
「分かりました。何の曲がいいですか?」
「そうだな…エミールの得意な曲で」
「得意な曲…ですか。うーん…何にしようかな…」
自分には憎しみに駆られてマモノを殺し続けるニーアを止めることは出来ない。
けれど、そんな彼のやすらげる場所になれるのなら。
ピアノでも何でも、自分に出来る範囲のことは精一杯やろう。
エミールは鍵盤へと指を滑らせながら、そっと微笑んだ。