Small World
買い物客が日夜溢れる有名百貨店前にて辺りを見渡している一人の少女。そんな彼女に軽く手を振りながら近づいてくる少年。
「待たせた?」
「ううん。さっきまで中で色々見てたから」
「そか。じゃーあー今日くらいはなんか超うまいもんでもぱあっと買ってこうぜっ! 沙樹、何食いたい?」
「正臣は?」
「肉! 黒毛和牛とか松坂牛とかそんな感じの」
「じゃあお肉だね。私、お鍋食べたいなあ。おいしいお肉をいーっぱい入れて。締めはご飯とうどん、どっちにする?」
「うおおっなにそれ。すげえ迷う」
「あ、お鍋の具にうどんを入れて締めは雑炊ってのもいいかな」
「グッジョブ沙樹。それでいこう」
「じゃあ買い物はここじゃなくてもよくない?」
「いーじゃんたまにはさー。一切れ千円くらいの肉とか興味ない?ない?」
言いながら沙樹の手を引いて、そのまま中へと入っていく。実のところこれくらいの散財は散財の内に入らない程度の収入を二人は得ている。臨也からアルバイト代として毎月支給されている額は、高校を退学した未成年の少年少女に支払う金額としては破格である。が、正臣としてはまあこんなものだろうと考えている。
なにしろ健康保険も年金も労災も退職金もない仕事だ。その上、今後真っ当な職に就く機会があったとしても履歴書にはとても書けない仕事内容。ないない尽くしの職場なのだから将来に備えてこれくらいは貰っていいだろうと、正臣は月々着実に増えていく口座の預金残高を見ながら自分を納得させている。
まあ『君と沙樹ちゃん二人で波江半人前……以下、かな?』という、雇い主の給与決定方式に少々イラっとこなかったと言えば嘘になるが。
「いっぱい買っちゃったね」
「たまにはいーじゃん。うんまーい飯は明日への活力なんだぜ? つか沙樹はもっと食ったほうがいいって」
「あんまり外に出ないのにそんな食べちゃったら、まん丸になっちゃうよ? ボールみたいに転がってっちゃうかも。あ、なんか楽しそう」
くすくすと笑い声を漏らす少女は、真実本当に楽しそうである。一緒に暮らしてそれなりの時間が経ったが、正臣にとって彼女の感性はどうも分かり難い。その理解できない箇所も含めて好ましく思っているから全く問題はないが。
陽が落ちかけの道を二人でゆっくり歩く。繋いだ手は温かく、反対の手に持った買い物袋が揺れてがさがさと音を立てる。細長く後方へと伸びた影もちゃんと手を繋いでいるのをなんとなく確認し、ふっと笑う。ぽつりぽつりと言葉を交わして沈黙、また唐突に始まる会話。噛み合ってるような、どこかずれているような、そんな空気が心地よい。
「沙樹、今日はどうする?」
「んー……お迎えしてほしい気分」
「オッケ。じゃ先に行ってるけど、気をつけてな」
「はぁい」
握っていた小さな手を離し何度も何度も後ろを振り返りながら、正臣は一人家路に着く。
暮れていく景色が、買い物袋を掲げて歩く女性が、革の鞄を小脇に歩を進める背広姿の男性が、自転車で通り過ぎていく子供が、所々漂う夕餉の香りが、ぽつりぽつりと目立ち始めた灯りの点いた家々が、そんなごく当たり前の人々の営みが、昔は泣きたいほどに恐ろしいものだった。自分には、とてもとても手に入れられない、そんなもののような気がして必死で目を背けて夜の街へと溶け込んでいた。
今は違う。正臣にだって彼らと同じように、帰るべき場所があるのだ。
たんたんたん、とアパートの階段を上っていく。主な仕事先である臨也のマンションとはとても比べ物にならない粗末な造り、その中の一室が帰るべき場所。かつて自分が住んでいた池袋のアパートよりも狭く古い。幼馴染の住居ほどではないが。
臨也からはもう少しランクが上の住まいも紹介されたが、沙樹と二人、ここがいいと主張したのだ。二人にとって必要なものだけで満たすことのできる、家のどこにいても互いの姿が視界に入る、手を伸ばせば届く距離にいられる、この小さな世界を。
ジーンズのポケットから取り出した鍵を入れて回して、その二人の世界の扉を開く。誰もいない家、干しっぱなしの洗濯物、落ちかけの夕日だけが差し込む部屋。こんな景色はもうずっとずっと、見慣れてきたもの。物心ついた頃から、ずっと。でも、胸を焦がすようなこの感情の意味は今と昔では全然違う。
「ただいま」
誰もいない家にぽそりと零れた音も、もう空しいとは思わない。
買ってきたものを台所に置いて、奮発した肉だけ冷蔵庫に入れる。窓を開けて二人分の洗濯物を取り込んで、陽のにおいが移ったそれらを抱きしめて目を細めた。こんななんでもないことで、今すぐ消えてなくなりたいくらいに満たされる。彼女も自分の帰りを待っている間はこういう気持ちなのだろうか。同じように思っていてくれればいいと願う。
薄い壁の外からたんたんたん、と軽い足音が聞こえてくる。軽い軽い彼女の音、それがこの部屋の扉の前でぴたりと止まって、すぐにドアノブの回る音が続く。きいっと微かに。扉の隙間から見えた短い髪、小さな頭、細くて細くて折×××な手足、どこか浮世離れした色を宿した目が正臣を捉えてふわっと目元が緩んで、仄かにあかい唇を開く。
「ただいま、正臣」
「おかえり、沙樹」
ただいまおかえりと言って言われて迎えて迎えられる。それだけで、心臓が締め付けられて潰れそうになる。息をするのも苦しくて、きっと変な顔で彼女を迎えているのだろうなあと思うが、靴を脱いですぐ側までやってきた沙樹も、なんだか表情の選択に困り果てているような、そんな曖昧な笑みを浮かべている。
この小さな世界で起こる様々なことに、まだ慣れることができない。
作品名:Small World 作家名:ゆずき