GLIM NOSTALGIA
序幕
セントラルでも由緒正しいそのホールでは、今宵、彗星のように現れた歌姫の公演が催される。チケットは即日完売したという噂はまやかしではなく、開演までまだ間があるというのに、座席やクロークで見られる人々の顔は一様に期待に輝いている。
そんな客達の表情に満足げに目を細め、一人の男が控え室の方へ歩いていく。腕には大きな花束を抱えていた。それは普通のありふれた男が抱えていたら、花束に負けてしまうような立派なものだった。花弁の色艶からして金惜しみされていないことがすぐに見て取れる。しかしその男は、花束に負けてしまうようなことはなかった。
けして長くないが短すぎもしない黒髪を後ろに撫でつけ、切れ長の黒い瞳に落ち着いた色をたたえてあたりを見ている男は、古風な言い方をするのなら美丈夫とでも言いたくなるようなそんな男だった。豪奢な花束を何気なく抱え、何の気負いもなく歩いていく。いずれ普通の身の上ではないのは確かだ。精悍さと風雅さをほどよく携えたそんな男だ。
自然と彼に視線は集まる。そしてそうして彼を見る者の中には、知っている者もいた。彼が何者かを、だ。
「…マスタング大佐…?」
囁きが客の誰かの口をついた。軍の出世頭、内乱の「英雄」、食えない男…。一部ではそれなりに知られた名であった。また彼を知らなかったとしても、その若さでその地位にあるとしたら本人が相当な人物か家系が優れているかのどちらかは確実だから、いずれにせよ視線は集まってくる。どんな男なのだろう、と。
だが、好奇の目にも怯むことなく彼は歩いていく。
向かう先と抱える花を思えば、彼は歌姫に会いに行くに違いない。滅多なことでは人前に姿を現さない、咲き初めの花のように可憐な歌姫。しかし、そんな相手に彼が会いに行くのだとしても、どれだけの早業だとはさすがに誰も思わない。なぜなら、評判の歌姫を北の小さな街で見出したのが彼なのは周知の事実だからだ。
何の変哲もない小さな北方の街で、彼も介入する事件が起こった。あやわ暴動が起こるかという寸前でそれを止めた彼は、その街に住んでいた身寄りのない娘を保護し、中央への道を示したという。奇跡のように美しい歌声を持っていたその娘に、歌姫への道を。
――そうやって彼が才能ある若人に道を示したのは、しかし初めての事ではない。彼には、そういう意味でいうなら、もっと大きな功績がある。誰にも真似できぬ錬成を為しえる最年少の国家錬金術師。その少年をやはり東の田舎で見出したのは彼だからだ。青田刈りはマスタングのお家芸かと年寄り達は皮肉るが、それに堪えるような可愛げは彼にはない。そんなものがあったら、彼はここまで出世していないだろう。
とにかく、彼は控え室に向かって歩いていて、彼を彼と知る幾人かの客達はその動きを当然のこととして見守っていた。
控え室の前まで行くと、男は丁寧にノックをした。ほどなくして返事があり、それには静かに名のる。すると、軽い足音がしてドアが開いた。立っていたのは、少女と女性の中間のような娘だった。栗色の髪を綺麗に結い上げ、頬をばら色に染めた。
「…大佐!」
彼女は幼さの残る顔をくしゃりと崩して、嬉しそうに両手を握った。マスタングは鷹揚に笑って、おめでとう、と短く言い、そして抱えた花束を慣れた仕種で差し出した。
「ささやかながら、お祝いだ」
娘は――近頃セントラルでも評判の「歌姫」は白い頬を染めてそれを大事そうに受け取る。だが、見上げた瞳は物問いたげに揺れていて、彼女が単純にこの洗練された男に胸をときめかせているわけではないのがわかる。
マスタングは小さく笑った。
「…『彼』は、」
誰とも明確にせず、マスタングは声を潜めてそう語りかける。途端、歌姫の瞳が見開かれる。
「行きたかったが、どうしても都合がつかないと。…だからこれは二人分だ」
悪戯っぽく片目を瞑って、マスタングは晴れやかに笑った。そして、綺麗に結われた髪を崩さないよう気を遣いながら、ぽん、と歌姫の頭を撫でる。
「…客席で聞いているよ。楽しみにしている」
すぐに離れて、彼は笑みをたたえたままに片手をひらりと振った。
言葉の通り、すぐに立ち去るかに思えたが、花束を抱えたまましばらく控え室の前に立ち尽くしていた歌姫に向けて、背中でもう一言だけ付け加えた。
「――きっと彼にも届く。彼のためにも、歌ってくれ」
歌姫はきゅうっと大きすぎるほど大きな花束を抱きしめて、はい、と震える声で答えた。
そろそろ開演の時間が迫っていた。
マスタングは、しかし、客席には向かわず、ホールの外に一度出た。気に留めるものは誰もいなかった。
彼は迷いのない足取りでホールから街路へ向かう途中の木の陰で足を止めた。既に日が落ちて大分経つそのあたりは真っ暗で、ほんのわずかに設けられたガス灯がわずかに明かりを伝えるのみだった。しかしあたりが暗いのには背後にあるホールから漏れる光が大きすぎるせいもあったかもしれない。
とにかく、彼はコートも羽織らない姿で足を止めた。
今は真冬ではないが、まだ春というにはすこし早く、夜ともなれば繁華街であるセントラルの市街でも当たり前のように寒い。まして大通りから外れれば寒さはいや増す。それでも彼は寒そうな素振りなどかけらも見せていなかったが、あたりにはやはり誰もいなかった。
「…鋼の」
彼はしかし、その暗い、誰もいない場所で、欠片の迷いもなく、視線を巡らせることもなく、その名を短く呼んだ。奇妙な確信があった。彼はきっと近くにいるだろう、という。
果たして…、程なくして気配だけが揺れて。
木の陰から、観念したように出てきたのは少年だった。赤いコートに身を包んだ。
「フィリアは君に会いたそうだったぞ」
面白がるように目を細めてマスタングは言った。しかし、少年はただ溜息をついて首を振る。顔立ちだけを見ればまだ幼いような様子だったが、佇まいは静謐で、見た目よりずっと老成しているような雰囲気を持っていた。
「オレはああいう堅苦しい所は苦手だし」
「だから私がすっかり綺麗にコーディネイトしてやろうと言っただろ?頭のてっぺんから爪先まで」
「ノーサンキュー」
にべもなく言い放って、金髪と、そして金の目が印象的な少年は首を振った。ガス灯の仄かな光がその金糸の一筋を不意に光らせた。その美しさに、男は目を細めた。
「いいんだ。オレは」
「……鋼の」
「あんたは戻れよ。…そうだな、」
そこで彼は何かを考えた顔つきで言葉を区切り、きちんとした正装に身を包んだ後見人を上から下までじろじろと見た。隙のない姿、一人前の男。容姿にも立ち居振る舞いにも落ち度のない。
「…なんだ?」
じっと見つめる視線に苦笑しながら男は軽く首を捻った。
「オレの代わりに聴いといて」
言って、少年は目を細めた。それはとてもやさしい顔だった。
「鋼の、しかし…」
少年はもう一度首を振った。そして、今度は大人びた顔で笑う。きりりとした瞳が、凛として男を見上げていた。
「――花束ありがとう、大佐。それじゃ、オレは行くから」
「鋼の、待ちたまえ、君」
セントラルでも由緒正しいそのホールでは、今宵、彗星のように現れた歌姫の公演が催される。チケットは即日完売したという噂はまやかしではなく、開演までまだ間があるというのに、座席やクロークで見られる人々の顔は一様に期待に輝いている。
そんな客達の表情に満足げに目を細め、一人の男が控え室の方へ歩いていく。腕には大きな花束を抱えていた。それは普通のありふれた男が抱えていたら、花束に負けてしまうような立派なものだった。花弁の色艶からして金惜しみされていないことがすぐに見て取れる。しかしその男は、花束に負けてしまうようなことはなかった。
けして長くないが短すぎもしない黒髪を後ろに撫でつけ、切れ長の黒い瞳に落ち着いた色をたたえてあたりを見ている男は、古風な言い方をするのなら美丈夫とでも言いたくなるようなそんな男だった。豪奢な花束を何気なく抱え、何の気負いもなく歩いていく。いずれ普通の身の上ではないのは確かだ。精悍さと風雅さをほどよく携えたそんな男だ。
自然と彼に視線は集まる。そしてそうして彼を見る者の中には、知っている者もいた。彼が何者かを、だ。
「…マスタング大佐…?」
囁きが客の誰かの口をついた。軍の出世頭、内乱の「英雄」、食えない男…。一部ではそれなりに知られた名であった。また彼を知らなかったとしても、その若さでその地位にあるとしたら本人が相当な人物か家系が優れているかのどちらかは確実だから、いずれにせよ視線は集まってくる。どんな男なのだろう、と。
だが、好奇の目にも怯むことなく彼は歩いていく。
向かう先と抱える花を思えば、彼は歌姫に会いに行くに違いない。滅多なことでは人前に姿を現さない、咲き初めの花のように可憐な歌姫。しかし、そんな相手に彼が会いに行くのだとしても、どれだけの早業だとはさすがに誰も思わない。なぜなら、評判の歌姫を北の小さな街で見出したのが彼なのは周知の事実だからだ。
何の変哲もない小さな北方の街で、彼も介入する事件が起こった。あやわ暴動が起こるかという寸前でそれを止めた彼は、その街に住んでいた身寄りのない娘を保護し、中央への道を示したという。奇跡のように美しい歌声を持っていたその娘に、歌姫への道を。
――そうやって彼が才能ある若人に道を示したのは、しかし初めての事ではない。彼には、そういう意味でいうなら、もっと大きな功績がある。誰にも真似できぬ錬成を為しえる最年少の国家錬金術師。その少年をやはり東の田舎で見出したのは彼だからだ。青田刈りはマスタングのお家芸かと年寄り達は皮肉るが、それに堪えるような可愛げは彼にはない。そんなものがあったら、彼はここまで出世していないだろう。
とにかく、彼は控え室に向かって歩いていて、彼を彼と知る幾人かの客達はその動きを当然のこととして見守っていた。
控え室の前まで行くと、男は丁寧にノックをした。ほどなくして返事があり、それには静かに名のる。すると、軽い足音がしてドアが開いた。立っていたのは、少女と女性の中間のような娘だった。栗色の髪を綺麗に結い上げ、頬をばら色に染めた。
「…大佐!」
彼女は幼さの残る顔をくしゃりと崩して、嬉しそうに両手を握った。マスタングは鷹揚に笑って、おめでとう、と短く言い、そして抱えた花束を慣れた仕種で差し出した。
「ささやかながら、お祝いだ」
娘は――近頃セントラルでも評判の「歌姫」は白い頬を染めてそれを大事そうに受け取る。だが、見上げた瞳は物問いたげに揺れていて、彼女が単純にこの洗練された男に胸をときめかせているわけではないのがわかる。
マスタングは小さく笑った。
「…『彼』は、」
誰とも明確にせず、マスタングは声を潜めてそう語りかける。途端、歌姫の瞳が見開かれる。
「行きたかったが、どうしても都合がつかないと。…だからこれは二人分だ」
悪戯っぽく片目を瞑って、マスタングは晴れやかに笑った。そして、綺麗に結われた髪を崩さないよう気を遣いながら、ぽん、と歌姫の頭を撫でる。
「…客席で聞いているよ。楽しみにしている」
すぐに離れて、彼は笑みをたたえたままに片手をひらりと振った。
言葉の通り、すぐに立ち去るかに思えたが、花束を抱えたまましばらく控え室の前に立ち尽くしていた歌姫に向けて、背中でもう一言だけ付け加えた。
「――きっと彼にも届く。彼のためにも、歌ってくれ」
歌姫はきゅうっと大きすぎるほど大きな花束を抱きしめて、はい、と震える声で答えた。
そろそろ開演の時間が迫っていた。
マスタングは、しかし、客席には向かわず、ホールの外に一度出た。気に留めるものは誰もいなかった。
彼は迷いのない足取りでホールから街路へ向かう途中の木の陰で足を止めた。既に日が落ちて大分経つそのあたりは真っ暗で、ほんのわずかに設けられたガス灯がわずかに明かりを伝えるのみだった。しかしあたりが暗いのには背後にあるホールから漏れる光が大きすぎるせいもあったかもしれない。
とにかく、彼はコートも羽織らない姿で足を止めた。
今は真冬ではないが、まだ春というにはすこし早く、夜ともなれば繁華街であるセントラルの市街でも当たり前のように寒い。まして大通りから外れれば寒さはいや増す。それでも彼は寒そうな素振りなどかけらも見せていなかったが、あたりにはやはり誰もいなかった。
「…鋼の」
彼はしかし、その暗い、誰もいない場所で、欠片の迷いもなく、視線を巡らせることもなく、その名を短く呼んだ。奇妙な確信があった。彼はきっと近くにいるだろう、という。
果たして…、程なくして気配だけが揺れて。
木の陰から、観念したように出てきたのは少年だった。赤いコートに身を包んだ。
「フィリアは君に会いたそうだったぞ」
面白がるように目を細めてマスタングは言った。しかし、少年はただ溜息をついて首を振る。顔立ちだけを見ればまだ幼いような様子だったが、佇まいは静謐で、見た目よりずっと老成しているような雰囲気を持っていた。
「オレはああいう堅苦しい所は苦手だし」
「だから私がすっかり綺麗にコーディネイトしてやろうと言っただろ?頭のてっぺんから爪先まで」
「ノーサンキュー」
にべもなく言い放って、金髪と、そして金の目が印象的な少年は首を振った。ガス灯の仄かな光がその金糸の一筋を不意に光らせた。その美しさに、男は目を細めた。
「いいんだ。オレは」
「……鋼の」
「あんたは戻れよ。…そうだな、」
そこで彼は何かを考えた顔つきで言葉を区切り、きちんとした正装に身を包んだ後見人を上から下までじろじろと見た。隙のない姿、一人前の男。容姿にも立ち居振る舞いにも落ち度のない。
「…なんだ?」
じっと見つめる視線に苦笑しながら男は軽く首を捻った。
「オレの代わりに聴いといて」
言って、少年は目を細めた。それはとてもやさしい顔だった。
「鋼の、しかし…」
少年はもう一度首を振った。そして、今度は大人びた顔で笑う。きりりとした瞳が、凛として男を見上げていた。
「――花束ありがとう、大佐。それじゃ、オレは行くから」
「鋼の、待ちたまえ、君」
作品名:GLIM NOSTALGIA 作家名:スサ