壁の向こうは夜
自室に戻ると着替えよりも先に蓄音器の電源をつける。現世から持ち帰ったそれはボタンひとつで簡単に両のスピーカーから音を溢れさせる。ディストーションのかかったギターをバックに一息ついてから、檜佐木は死覇装の帯に手を掛ける。しゅるしゅるという帯を解く音がかろうじて聴こえる。
できるだけ遅くまで仕事をしたいが、皆が引き上げて一人きりになってしまえばすぐに帰り支度をして執務室を出る。しかし自室には直行せずに、そこら辺の人間を捕まえて飯や酒などに付き合わせる。犠牲になるのは最近では阿散井が一番高確立だ。檜佐木と飲む時は酒を控えるようにまでしている、頼もしい後輩である。吉良は最近どうも忙しいようで付き合いが悪い。
その日も檜佐木は、夜も更けてから隊舎へ戻った。辺りはしんと静まり返っている。足元はとてもおぼつかなかったが、流石に悪いのと、先輩としてのプライドもあって阿散井には隊舎の入口で別れを告げた。ふらつく足で、とにかく前へと急ぐ。酒の力を借りなければ耐えられない。ひっそりと暗い隊舎の廊下を歩いてゆくと、やがて後方から足音が聞こえてきた。またか、と檜佐木は舌を打った。先程よりもさらに早足になると、その足音もますます早くなる。ついには走り出した。足音も迫る。驚くほど静まり返った廊下で、自分の荒い息と二人分の足音だけが耳にこびりつく。ようやく自室が見えた。檜佐木は勢いよく戸を開けて体を滑り込ませるとすぐさま戸を閉めた。足音は消えたものの、暗闇の静寂が心臓を掴む。上がった息はますます荒くなり、乾ききった喉がひりついた。このまま何も見えなくなり、何も聞こえなくなるのではないかといった激しい焦燥感に襲われる。手探りで部屋の明かりを点ける。情けなく震える指先で蓄音器の電源をつけて、檜佐木はようやく一息ついた。
横になる時すら、蓄音器の電源は消さない。ごく小さな音で、割と落ち着いた音楽を流しながらようやく眠りに辿り着く事ができる。目を閉じる事が怖い。いつでもまなうらにあの光景がよみがえる。何もできずに、目の前で真っ赤に染まるそれをただ見つめていた時の光景が。檜佐木は蓄音器から流れる音に意識を集中した。そうして、早く朝日が昇る事だけをひたすら願う。夜は彼の人の斬魄刀に似ている。壁の向こうには、まだ夜がうごめいている。