恋ひ恋ひて
義勇は答えず、静かに笑うばかりだ。
そっと、義勇の左手が伸びてきて、炭治郎の右腕をつかんだ。あの日のように。
「今日一日、おまえの時間をくれ」
「俺の時間?」
「どうぞどうぞ! ふつつかな兄ですが、よろしくお願いします!」
きょとりとまばたいたとたんに聞こえた、とんでもない返答に、炭治郎はギョッと目を見開いた。義勇の背後からひょこり顔を出した禰豆子は、炭治郎の戸惑いなど素知らぬ顔で、明るく笑っている。
「お兄ちゃん、今夜は義勇さんとお泊りしておいでよ」
「行ってこいよ、炭治郎」
「はぁん? ふたりでこっそりうまいもんでも食う気か!? そうはいかねぇ……おいっ!! 紋逸てめぇ、重いだろうが、どけよ!!」
「おまえは黙ってろっての! お馬鹿! 炭治郎が幸せになれるかの瀬戸際なんだぞ!!」
ワイワイと姦しいやり取りは、まったく意味がわからずついていけない。オロオロと視線をさまよわせていれば、ぐいっと腕を引かれて立ちあがらされた。予期していなかった炭治郎は、立ち上がるなりよろけて、ぽすんと義勇の胸におさまった。
「炭治郎を借りていく」
「借りると言わずに、貰ってくれていいですよ」
「炭治郎、禰豆子ちゃんのことは俺に任せろ!」
「チッ。おい、半半羽織。権八郎を泣かせんじゃねぇぞ」
なんで、どうしてと、混乱するうちに義勇は炭治郎の手首をにぎり、どんどんと歩いていく。必死についていく炭治郎を、振り返りもせずに。
家が見えなくなったころ、突然義勇の足が止まった。
「ふもとの村に、家を買った」
「え!? あ、あの、義勇さんこちらに住むんですか?」
唐突な言葉に、炭治郎は目をしばたたかせた。
では、もしかしたら頻繁に逢えるようになるのだろうか。期待が見る間にふくらんで、ドキドキと聞いた炭治郎に、ようやく義勇が振り向いた。
「左手でも、字も書けるようになった」
「すごい! 頑張ったんですね!」
望む答えではないが、義勇の言に炭治郎の顔がほころんだのは当然だろう。義勇が失ったのは利き腕だ。今まで苦もなくできていたことでも、今では人の手を借りねばならぬような場面も多いことだろう。逢わずにいた一年とちょっとのあいだに、義勇はどれだけ苦労し、努力してきたのか。それを思えば、我がことのようにうれしさがわき上がる。
「炭治郎」
笑顔のまま、はいと答えた炭治郎に向き直った義勇が、そっと炭治郎の頬に触れた。慈しむようにゆるりとなでられて、炭治郎は息を飲む。こんな触れ方をされたことは、一度もない。見つめあい、優しく頬をなでられるなんて、これではまるで恋仲のようではないか。
「……代書人をしようと思う。長く生きられるわけではないが、無為徒食に過ごすままでは、逢うわけにはいかないと思っていた」
「そんな……」
長い間、命懸けで戦ってきたのだ。のんびりと好きなことだけして過ごしたところで、誰も責めはしないだろうに。もちろん、炭治郎だって義勇が職なしだろうと気になどならない。
「家庭を持つなら、職なしというわけにもいくまい」
胸の奥を、ヒヤリとした手で撫でられた気がした。手にしたままだった短冊の手触りに似た、ザラリとした感情に、炭治郎の頬から色が抜ける。
家庭を持つのか。この人が。妻を得て、家長として働き、そうしていつか子を生し、優しい笑みに包まれた家庭を築くのか。
それは幸せな光景のはずなのに、むやみやたらと泣きたいのはなぜだろう。気づいたところで自分の恋など、叶うわけがないと知っていたのに、どうしてこんなにも自分は傷ついているんだろう。
おめでとうございますと、言わなければ。よかったですねと、笑わないと。
思っても、唇は震えるばかりで、言葉は出てこなかった。
「炭治郎……一緒に暮らさないか。俺の家族になってくれ」
ぽろりと炭治郎の瞳から落ちた涙は、義勇の手で優しくぬぐわれた。
「嘘……」
「嘘なんかつかない。男同士だ、奇異な目で見られるだろう。蔑まれることも多いと思う。しかも、俺はせいぜい二、三年しか生きられない。おまえの将来を思えば、言うべきではないとわかっているが……」
「短冊を……」
義勇の声をさえぎり、ぽつりとこぼした炭治郎の言葉に、義勇の首が怪訝そうにかしげられた。
「短冊を、一緒に書いてくれますか? 毎年。ずっと離れずいられますように、って」
泣きだしそうに歪んだ義勇の顔が、静かに近づいて……初めて触れた唇は、ひやりと冷たく、けれどもひたすらに優しかった。
今宵は七夕。離れ離れの恋人が出逢う夜。
天の川に立ち込めた霧が朝の日差しを隠さずとも、離れることはきっとない。
――恋ひ恋ひて あふ夜はこよひ 天の川
霧立ちわたり 明けずもあらなむ――