午後4時のパンオショコラ
「……義勇さんの家の鍵……って、そんなもの貰えませんっ!」
狼狽を露わに鍵を突き返してくる炭治郎に、義勇はムッと眉を寄せた。その反応は想定外だ。いや、遠慮するだろうとは思ったが、なぜ泣きそうな顔をするのかがわからない。
「なんで?」
「だって、ぎ、義勇さんの家に勝手に入るなんて……もし、彼女さんと逢っちゃったら、俺、どうしたらいいのかわかりません……」
「彼女なんていない。おまえが見たのは仕事相手だ。俺がゲイだって知ってるだろ? 女が恋人のわけないだろうが」
呆れ声で言ってやれば、泣き出しそうだった顔がきょとりとあどけない思案顔になり、次いでふわりと嬉しそうな笑みに変わった。
「じゃあ、義勇さんに恋人はいないんだ……」
「現時点では、まだいないな」
悪戯心から澄ました顔で言うと、炭治郎はまた不安げな顔をする。たいへん悪趣味だと自分でも思うけれど、義勇の言葉にくるくると表情を変える炭治郎を見るのは、たいそう気分が良かった。
「恋人ができる予定があったりするんですか……? で、でも、義勇さんはずっと好きな人がいるんですよね? その人以外は好きにならないって……」
「今日はそいつの結婚式だ」
ストンと炭治郎の肩が落ちた。義勇を見る目には、労りと嫉妬と不安の色が絡み合っている。
「好きな人が結婚したから、だから、ほかの人を恋人にするんですか……?」
「そうじゃない。親友への恋が終わったのは事実だが、恋人になりたいのはそいつのことが好きだからだ」
ちゃんと恋がしたい。小説のなかでだけでなく。炭治郎と二人で。
想像だけじゃなく、生身の自分で。きれいなだけじゃない、嫉妬や劣情も含めたすべての想いを、炭治郎にやりたい。炭治郎からも渡してほしい。
「そいつも俺のことが好きなままらしいから、断られることはないと思う」
「そう、なんだ……」
炭治郎はまだ気づかない。自慢の鼻はどうした。
「まだ高校生だから、しばらくは健全なお付き合いになるだろうけどな」
「高校生……そう、ですか……」
おまえのことが好きだという気持ちに匂いがあるなら、きっとこの場に溢れかえって、息もできないぐらいに匂い立っているだろうに。
義勇はうつむく炭治郎の腕をとり、そっと引き寄せた。
「だから、卒業まではこれぐらいで我慢しろよ……?」
触れただけのキスは、きっと誰にも見られていないはずだ。この席は義勇専用で、店内からの視線は炭治郎が作った観葉植物の壁で遮られ、二人の姿は見えないのだから。
火がついたように真っ赤に染まった炭治郎の顔に、義勇は満足し小さく笑うと、手を放した。
「レジ」
「え? あ、えっと、あのっ」
「早く行け」
客が待ってるぞと言外に伝えれば、炭治郎は、今日は絶対に閉店までいてくださいね! と言い置いて、慌ててレジへと足を進めた。その背を見ながら肩を竦め、義勇は内心で少しだけ安堵した。
無事に伝わってなによりだ。このまま気づかれず、恋人になれないまま帰っていたら、本に書いたメッセージがとんでもなく間の抜けたものになってしまう。
ファーストキスだったのにと、もしも文句を言われたら、俺にとってもファーストキスだと教えてやろうか。それを聞いたときと、本を開いて義勇が真滝勇兎だと知ったときと、さて、どちらが見物だろう。
きっとどちらも可愛かろうと、赤く染まる炭治郎の顔を思い浮かべて、義勇は幸せな心地でパンオショコラに噛り付いた。
──大切な読者から、大切な恋人になった君へ。本のなかより素敵な恋を、いつまでも二人で続けられることを願って──
作品名:午後4時のパンオショコラ 作家名:オバ/OBA