煙草
殆ど何も入っていない鞄を煙草と酒ときつい香水の匂いが充満する狭い部屋に置き、急ぎ足で学生服のまま再び入って来た玄関の扉に手を掛ける。
「征矢ぁ、外出るなら帰りにお酒買ってきてぇ」
起きていたのか。渋々と振り返ると下着姿の母親が財布を投げる。
ショッキングピンクのそれから五千円札を一枚抜き取って、財布は投げ返さずに靴箱の上に置いた。返事をするのも、視線を合わせるのすらも苦痛だった。
「いってらっしゃぁい」
玄関に掛けられた鏡越しに見た母親は化粧の途中だったのだろう、片目だけ色を塗った瞼をいびつに歪ませて手を振っていた。
行く当ても無くふらふらと繁華街を出歩いた末、戻って来たのはやはりいつもの溜まり場だった。
腕時計を見ると、時間は既に23時を回っている。この時間、誰かいるだろうか。
歩きながらつい一時間ほど前に充電の切れた携帯を無意味に開閉させる。せめて充電くらいしてくれば良かった。この時間、わざわざ行ったとて誰も居ないという可能性も拭えない。粋がっていたって結局、俺達は義務教育すら終えていないのだから。
「……あーっ!飛鷹サン!!ちっす!」
結局、溜まり場には唐須しかいなかった。唐須が俺のチームに入ったのはしばらく前だったが、実際に二人だけ、という場面は実はこれが初めてだ。
「おう……一人か」
「そっす。30分前くらいなら残ってるヤツもいたんですけど」
「そうか」
やはり携帯を充電してこなかったのは失敗だった。
コイツとは特別共通の話題も無い。隅に置いてあっても目立つ唐須のデコチャリを眺めながら、来たばかりだがもう帰ろうか、この時間だと近くのコンビニしか開いてねえからもうビールでいいか、などと思案していると隣でライターを擦る音。
その方向を振り向くと、やはり唐須が煙草に火を付けていた。
夜の闇の中、唐須の咥える煙草の先端が煌々と赤い光を発している。
独特な煙草の匂いが鼻につき、反射的に顔を顰めた。
……駄目だ。もう帰ろう。
そう判断して腰を浮かしかけた時、はた、と目が合う。
「唐須、俺はもう帰」
「飛鷹サンも吸います?これ」
何を勘違いしたのか、唐須は俺の言葉を遮って、喜色満面という表情。青いパッケージの箱をちらつかせる。
「いい」
「やっだなァ!ンな遠慮しなくってもいいっすよお!!」
「いいっつってんだ」
少しばかり強く言うと、やっと唐須が大人しくなる。
しかし何処か釈然としない表情で、煙草の箱をべこべこと凹ませながら手の中で弄ぶ。
……こいつの相手は疲れる。気付かれない程度に小さく溜息を吐いて立ち上がり、学ランに付いた土埃を払う。さっきのやり取りで少し崩れた髪型も愛用の櫛で直して、今度こそ帰るぞと言おうとした瞬間、唐須がまた声を上げる。
「んあっ、もっしかして飛鷹サン煙草吸えないとかっすか!?あーあー!そういや俺飛鷹サンが煙草吸ってんの見た事ねえわ!」
なんでこいつは一人でこんなにテンションを上げられるのだろうか。
というか、さっきと今の動作で俺がもう帰る事が分からないのか。
もう下手に誤魔化してまた妙に絡まれるよりは正直に言った方が楽だろうと判断して、簡潔にそれだけを伝える。
……早く家に帰りたいと思った事は本当に久しぶりだ。
「……煙草は嫌いだ」
それを聞いた唐須はさっきまでのテンションの高さとは一転、きょとん、として吸っていた煙草を足元に落とした。
……馬鹿にして笑うか、無理矢理吸わせようとするか。
どちらにしろ、唐須がこれ以上俺を刺激するようなら言葉だけでは済ませられないことになるだろう。
「ンじゃあ俺も吸うのやーめよッ」
想定していた反応からは考えもつかないような、間延びした言葉。
身構えていた脚から力が抜ける。
「……あ?」
「え、だって飛鷹サン煙草嫌いなんっしょ?」
「あ、ああ」
「じゃーいいじゃないっすか」
「……そうか」
「だからぁ、もーちょい一緒にいません?」
「は?」
先程取り落とした煙草の火を靴底で踏み消し、箱の中にまだ半分以上残っていたであろう煙草も笑顔で握り潰してライターごとゴミ箱に放る。
「ほら、飛鷹サン、お喋りの続きしましょうよ」
続きも何も、俺はまともにお前と話していただろうか……?
まあ、よく分からない奴だがこいつなりに一応俺に気を使っているのだろう。多分。
俺はもう一度髪を直してから、やけに嬉しそうな唐須の隣に腰かけた。