黒籠アリス
同じバスケ部員で図書委員の降旗と並んで図書室のカウンターに座っていても、本を借りる生徒がいなければ、何もすることはない――。
ちらりと降旗が読んでいる本を覗いてみたものの、そこには写真も会話文もない。
(面白い本なんでしょうか?)
黒子は思った。
(バスケ雑誌でもない、小説でもない本なんて)
そこで、黒子はぼんやりと考え事に耽ろうとした。
委員の仕事が終わったら、マジバにシェイクを飲みに行こうかな、などと微睡みつつ考えていると、バスケ部のみんなで飼っている犬のテツヤ2号が、目の前を駆け抜けていった。
これがバスケ部の使っている体育館でのことなら、そんなに珍しくもないけれど、ここは学校の図書室。
一体どこから校舎の中に入り込んでしまったのだろう、と思いながら、黒子は慌てて椅子から立ち上がった。
よく見ると、2号はその小さな体に見知らぬ時計を提げている。
それを不思議に思いながら後を追うと、2号が本棚の陰にするりと身を滑らせるのが目に入った。
黒子も思わず、2号に続いて本棚の陰に入り込む。
本棚と本棚の間の道が伸びていたのは少しのうちで、その先は急にがくんと落ち込んでいた。
突然のことだったから、夢中で走っていた黒子は踏み止まろうなんて思う暇がない。
気づくと、とても深い井戸のようなところを落ちていた。
井戸がやたらと深かったのか、相当ゆっくりと落ちていたのか。
黒子は落ちながら、辺りを見回し、次に何が起こるかと気にする余裕があった。
手始めに下を向いて行き着く先を見極めようとしたけれど、暗すぎて何も分からない。
そこで周りに目を凝らすと、壁はぎっしりと本棚や食器棚で埋まっていた。
あちこちに地図や絵が掛かっているのも見える。
黒子は通りがかりに、棚から瓶を一つ掴み取ってみた。
瓶のラベルには「バニラ」と書かれていたけれど、残念なことに空っぽだ。
だからと言って、空き瓶を投げ捨てるわけにもいかず、落ちる途中で別の戸棚へ、なんとか瓶を押し込んだ。
落ちて、落ちて、まだ落ちていく。
キリがない。
「何キロくらい落ちたんでしょう?」
声に出して言ってみる。
「絶対、地球の真ん中くらいまで来てる。――って、不思議の国のアリスは言ったんでしたっけ。英語できないので、邦訳しか読んだことありませんけど」
黒子は英文学には詳しくなかったけれど、小説はよく読むほうだったので、この状況が有名な作品の世界と似ていることには気づいていた。
落ちる、落ちる、まだ落ちる。
することもないので周囲を観察しているうちに、ぼふっ! どんっ! と枯れ葉の山に突っ込んだ。
落ちるのも、ここまでのようだ。
黒子はケガ一つしなかった。すぐに、パッと立ち上がる。
見上げても、頭上は真っ暗闇。目の前には長い廊下があった。
時計を提げた2号が駆けていくのが見える。
追わなければ、と黒子はすぐに走り出した。
すると、黒子の耳に2号? のセリフが飛び込んでくる。
廊下の角を曲がりながら、
「こんなに遅れてしまうとは! 耳もヒゲもあったもんじゃない!」
黒子はぴったり後について、その角を曲がったはずなのに、2号の姿はもう消えている。
気づけばそこは細長い入口の間で、低い天井からぶら下がったランプが、ずらりと一列になって灯されていた。
その部屋には、あちこちにドアがあったけれど、どれも鍵がかかっている。
黒子は片っ端からドアを調べた挙句、細い部屋の中をとぼとぼと歩いていった。
一体どうしたら、外へ抜けられるのだろう。
透き通ったガラスで出来た、三本足の小型テーブルを見つける。
その上には、小さな金の鍵があるだけだ。
黒子は例の物語を思い出しながら、この鍵がどこかの部屋のドアに合うんでしたっけ? と考える。
だが、しかし。鍵穴が大きいのか鍵が小さいのか、どのドアも開かない。
もう一度ぐるりと部屋を回ってみると、先ほどは気づかなかった丈の短いカーテンを見つける。めくってみると、40センチほどの高さの小さな扉があった。
試しに小さな金の鍵を差し込んでみる。
どうやら、ぴったりのようだ。
黒子が扉を開けてみると、ネズミの穴ほどの小さな抜け道に繋がっていた。
膝をついて覗いてみると、その道の向こうは庭園になっている。
しかし、戸口には頭さえ通せない。
「何かの瓶の中身を飲んで、小さくならないといけないんでしたっけ」
うろ覚えの知識で、黒子は独り言を呟く。
扉のそばでじっとしていても仕方ないので、黒子はテーブルのところへ戻ってきた。
記憶の中にあるような、小さな瓶を見つける。
瓶の細いところに紙のラベルが結んであって、そこには「Drink me」と英語で書かれていた。
物語の中の少女は、これに毒が入っていないかどうか確かめようとしていた気がするけれど、黒子は「どうせ、これは夢でしょう」と決めつけて、さっさと瓶の中身を口に入れた。
いつの間にか自分の服装が変わっていたけれど、それだって夢だからだろう。
口に入れた瓶の中身は、なんとも素晴らしいバニラ味!
さっさと飲み干してしまって、
「これで縮むことが出来るでしょうか」
実際に、黒子はそうなった。
三十センチほどの身長になった黒子は、無表情のまま目を輝かせた。
これで、小さな扉を通って庭に抜けることができる。
けど、まずはこれ以上縮むことがないか、二、三分様子を見ることにした。
しばらくして、もう何も起こらないと分かり、黒子は早速、庭に入っていくことにする。
そこで、致命的なミスに気付いた。
扉まで行き着いてから、小さな金の鍵をテーブルの上に置き忘れたことを思い出したのだ。
「迂闊でした……」
そういえば、物語の中の少女も同じ過ちをしていたな、と黒子はようやく思い出す。
けれど、彼女のように一人二役で自分を慰めようとは思わなかった。
どこぞのレッド・エンペラーと違って、黒子テツヤは二人もいないのだ。
そのうち、テーブルの下に小さなガラスの箱があるのを見つける。
開けてみると中にはクッキーが入っていて、そこにはレーズンで「Eat me」と書かれていた。
「――これを食べると、どうなるんでしたっけ」
黒子は必死で記憶を探り起こす。