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消えてしまう前に

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 雨宮は下を向いた……。
 そこには、雪についた彼女の足跡があった。
 雨宮はそれを追って、そして彼女の事を見上げた。
 そこには綺麗な長い髪をした、今風の、少女が立っていた。
 黒く日焼けした肌は、おそらく日焼けサロンで焼いたのだろう。
 言葉遣いを気を付けなければ、雨宮が驚いてしまうような、そんな言葉が出てくるに違いない。
 しかし、雨宮と大助の事を見つめるその尊い眼差しは、間違いなく、筒井あやめのものであった。
 雨宮は急激に込み上げた悲しみに、ぐっと腹に力を込めた。
 もう、彼女は、いないのだ……。
 四年間、その事だけを生き甲斐(がい)に生きてきた。
 あの美しく涼しげな、明るい横顔は、もう二度と、雨宮に微笑まない。
 信じるしかないと悟った時、雨宮の呆然とした無表情に、涙が伝い落ちた。

 その……涙だったのか――。

「ね~え、あやめちゃんはあ?」
 あやめは困った顔で、「ごめんね、もう、あやめちゃんはね……」と言った。
「おい、ぼうず」
 大助は立ち上がって、雨宮を振り返った。
 雨宮は覚悟を決め終わった、そんな笑顔で頬の涙をぬぐい、大助の元へ歩いていった。
「あやめちゃんが、大好きか?」
 雨宮は大助の頭をなでながら、そう言った。
「うん。だって…僕結婚するもん……」
 雨宮が少しだけ鼻を鳴らして「そうか」と言うと、あやめが顔を両手で隠した。
 あやめはそのまま、二人のそばに立ったままで、静かに顔を隠していた。
「あやめちゃんはなあ、実は、お姉ちゃんなんだ」
 大助は難しい顔をして、雨宮に首を傾げた。
「あやめちゃんの顔、ちゃんと、憶えてるか?」
 雨宮は優しく大助に微笑む。大助は大きく「うん」と困ったままの顔で頷いた。
「あやめちゃんは、嘘をつきたくないから、俺達をここに呼び出したんだぜ」
 雨宮は大助の肩に腕を回して、もう一方の腕であやめを指差した。
 大助は指先の示す方を見つめる。
 二人はあやめの事を見つめた。
「相棒、お姉ちゃんの顔を、よ~っく、見てごらん」
 大助は眉を顰めて、あやめの顔をじっと見つめた。
「あれが…、あやめちゃんだ」
「違うよ?」
 すぐに大助は怒ったような顔で雨宮を睨みつけた。
 雨宮も大助を見る。
「いいか、相棒。あやめちゃんの顔を、よ~っく、思い出してから…、お姉ちゃんの顔を見てごらん」
 大助はむっとした顔で、必死であやめの事を思い浮かべた。
 そして、静かに伸ばされた、雨宮の指先を追う。
「誰に、見えた?」
 大助は困り果てた顔をしていた。

「あやめちゃん……」――。

 雨宮は強く、大助を抱きしめた。
 抱きしめた腕が、がたがたと震えている。
「なにぃ?」
 雨宮は何も言わない……。
 大助を抱きしめるその力は、優しく、そして、何かを伝えるように、何かを、忘れるように、強く強く、大助を抱きしめていた。
「どうしたのう?」
 雨宮は、ただ、大助を抱きしめた。
 大助の耳元で、たまに雨宮の荒い息継ぎが聞こえた。

「ごめんなさい……」と、呟かれた声にも、雨宮は何も声を返してやれなかった。
 大助はあやめの事を呆然と見つめていた。
 困ったような、きょとんとした顔で、大助は赤いほっぺをぽりぽりとかいている。
 あやめは腕で顔を覆い隠すように、泣いていた。

「さようなら」――。

 しっかりと心の奥にも届いた声に、雨宮はいよいよだと、強く大助の背を抱きしめた。
 震えるように、肩の力を抜けぬまま、雨宮は最後の瞬間を受け入れた――。

 筒井パンを歩き出して少しすると、子供公園が見えてきた。ジャングルジムやブランコに積もった雪が、公園の存在感を弱くさせていた。
 繋いだ雨宮の手を、小さな赤い手袋が引っ張る。
「ねえねえ、あそこであやめちゃんと会ったんだよう?」
 そのベンチのそばに、砂場があった。今は真っ白な雪で覆われている。
「うん。俺も、そうだった」
「でもさ~あ、あやめちゃん、どうして来てくれなかったのう?」
 簡単に囁かれたその言葉に、雨宮は空を見上げて返答を考えた。
 空には白い雲が悠々と浮かんでいる。青い部分は、まるで絵の具のように真っ直ぐに延び広がっていた。
「お互いに辛いよな、相棒」
「うん……。ねえ」
「ん?」
「あいぼうって、な~にぃ?」
 また、前方の上空に広がる空を眩しく見つめて、満面で苦笑した。
 俺の相棒は、ずいぶんと若いな……。
「相棒ってな~、…なんだろ……」
「知らないのに、あのさあ、知らないのにゆったの~?」
「知ってるよ」
「じゃあなにぃ? ゆってみて~」
「失恋仲間の事だ」
「え?」
「そ、お~だ、くじけない~で~み~んな、の、アンパンマン」
「あ~! ちがう~! み~んな~の、た~め~に、だも~ん」
「そ、お~れ、ほにゃほにゃほ~にゃ~、こ~にゃにゃっちわ~」
「ぜんぜんちがうっ~」
 大助を家の前まで送り届けた後は、ふと立ち寄った商店街で、煙草を買った。
 やけに古びたその自販機は、ボタンを押してから少しして、ガコと、雨宮に煙草を与え渡した。そのすぐ隣では、ロックンロール風の若い格好をした男性が、店のお婆さんと世間話で盛り上がっていた。
 雨宮は自販機から煙草を取り出し、こちらに気が付いていないお婆さんに、小さく頭を下げてから、またその道を歩き出した。
 雪掻きの終わった商店街の道端には、泥にまみれた雪が小山を作っている。もうそこには、あの日の足跡は見つけられなかった。
 雨宮は歩いたままで煙草を咥え、ライターで火をつける。
 両脇に延びる商店街の構えは、中心に空洞を造っている。そこには、大きく広がっているだろう空の一角が映し出されていた。
 煙草の煙が少しだけ眼に入り、雨宮は眼をこすった。滲んでいた涙は、思ったよりも多く、雨宮の指先に雫となって伝っていく。
 もう、雪は降っていないのだ。
 遠くの方では、既に青かった空が、夕焼けの紅に染まり始めていた。

   エピローグ」

 あやめはレイの尻を勢いよく叩いた。
「いった……。ちょ~っと、性犯罪?」
「ふっざけんな、な~んで私がレイちゃんのバイト変わんなきゃなんだよ!」
「コッパ記念?」
「ないから!」
 レイはつまらなそうに道の脇に寄り、そのまましゃがんでいじける。
 あやめは困った顔でぽりぽりと顔をかいた。
「そうやって自分だけ今野先輩とイチャイチャしちゃうんだ……」
「いや、は?」
「今野今野だ」
「イチャイチャしちゃうも今野今野も意味わかんないから」
 あやめは難しい顔の苦笑でバリバリと肩をかいてから、レイのいじけた背中に言う。
「そんな日本語ないからね? 帰国子女かなんか知んないけど」
 眼の前の景色が一瞬で冷たくなった。
「あっはっ~!」
「く……」
 あやめの顔から、雪の屑がぽろぽろと落ちる……。
「て~んめ~!」
「来いオラ~っ!」
 壮絶な雪合戦が始まったが、少ししてすぐに、レイが特大の雪の塊を持ち上げて迫ってきたので、あやめは観念して悲鳴を上げた。
「コッパ記念だ馬鹿やろ~~っ!」
「レイちゃんそれっ、反則でしょ~~!」
作品名:消えてしまう前に 作家名:タンポポ