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消えてしまう前に

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 愕然(がくぜん)というか、幻滅というか、まさに馬鹿者だったのだと、本当にそこで悟った。有り得る筈の無い甘い期待に、どこかでは本気で期待していたのだ……。
 残酷な感情に、ついにやけたくなってしまう感情を、俺は必死で食い止めた。食い止めれば食い止める程、俺の感情は奈落の底に突き落とされる。這い出る事がおよそ不可能と思うような、そんな暗黒の感情だった……。
 筒井さんは、俺に、悲しい別れを、告げたいのだろう……。それは、別れではないのかもしれない。しかし、もう他には、可能性が残されていないような気がする……。
 筒井あやめは、俺の前で泣いていたのだから……。
 襖が開いた。
 俺の顔は既に緊張を克服していた。暗い感情がそうさせたのだ。俺はもう既に半分は失恋をしている。だから、もう緊張はしていなかった。
 その代わり、今度は、少し安心した顔をしてしまったかもしれない。
 なぜなら、襖を開けた三角巾の女性が、にっこりと、その笑顔を俺に向けていたからだ。
「もう来るから、待ってて下さいね」
「はい」
 笑顔で返せた。三角巾の女性が笑っていてくれたおかげで、俺はその笑顔を作る事ができたんだ。
 どうしてももこうしてもも無い理由だ。これから涙ながらに辛い話をする娘達に対して、あんなに屈託のない笑顔が作れるわけがない。
 まさに天の光だった。そう、まだ俺は彼女から何も聞いていない。これは想像の段階なのだ。初めて彼女と会った時も、俺はそうやって勝手な想像を膨らませていたじゃないか。
 奈落の暗闇の後には、心に明光が射していた。
「すいません」
 明光を表情に隠したまま、俺はうしろから囁かれたその声に振り返った。それは先程の妹の声だった。一瞬だけ、床にしゃがんだままでパンを物色していた子供も、そちらの方を振り返っていた。
 筒井あやめの妹は店の入り口に立ちながら、俺の事を外へと手招きしていた。やけにさっぱりとしたその顔は姉に使われて腹を立てているのだろう。
 そんな表情にも、俺は一瞬の期待をしてしまう。これがもし暗い話の幕開けなら、もう少し気の利いた顔をしている筈だ。
 また勝手な想像をしながら、俺は妹の指示に従って、落ち着いた足取りをし、その店の外に出た。
 冷風が少しだけ住宅街を冷やしていた。小鳥のさえずりは既に聞こえない。
 俺は、背中を向けたままでいる妹に悟られぬよう、深く、そして慎重な深呼吸を、最後の準備運動にしていた。

       11

 この時を待っていた。そう言うには、少し違いを感じる。でも、私はそれを決心したのだから、今ここで、その気持ちを終わらせてあげたい……。
 変な気持ちだと感じていたのは、本当に正しい表現だった。これは、変以外の何でもない。苦しくなって、感情が温まって、ズキンと痛む……。
 これは、たぶん、好きなんだろう……。
 私は眼を逸らさずに、しっかりと見つめた。
 このよくわからない、鮮明な淋しさは……、もう、一生、味わう事はない。
 それを決めたのは、間違いなく私なんだから。
 私は、自分のくれたチャンスに、頷く事にする。
 心が締め付けられるように、苦しくて、どうしても、微笑んでしまう。感情に似合わない笑顔で、私はその変な気持ちを再確認していた……。
 眼の前に立つ現実を確かめて、私は変な好きを実感している。
 眼の前に、もう居る……。なかなか、言葉が出てこない。
 自宅の前で会うなんて、想像もしなかった。
 けど、もう迷う事だけはしない……。
 それは私が決めた事なんだから。
 とても気持ちよくて、辛くて、淋しい……。そんな感情だった。

       12

「あの」
 俺は、勇気を出して、その一言を切り出した。
 彼女は俺を見つめた。
 店を出てからすぐに、彼女は店でパンを選んでいた子供に声をかけて、ドーナツをプレゼントしていた。俺はまだ、その時は放って置かれていた。
 しかし、「あの……」に続く言葉は、やはり俺の辞書にはまだないようだった。
 結局そこで俺の声は終わってしまう。彼女もまた、客の子供と短い会話を楽しみ始めてしまった。
 このまま待て、という意味なのだろうか。住宅街には人の姿が無いので、子供と遊ぶ女性と、道端に立ったスーツ姿の男という意味不明の画(え)ずらは恥ずかしくないが……。
 それでも、この緊張が何とも駄目だな……。緊張を隠すために煙草を吸いたいが、彼女の店の前という手前、灰皿を要求するわけにもいかない。
 つまり、俺は今物凄くまぬけな状況にある。
 内心は真っ赤に緊張で染まっている。外見は何もしないで、涼しそうに道端に突っ立ったまま。こういう時は、どうすればいいのだろうか……。そんな難しい事も、俺の辞書に載っている訳はない。
 俺は観念して、その時が訪れるのを無言で待った。
 よくよく辺りを見回してみると、電信柱や屋根に積もった雪が既にとけ始めている。たまに吹いてくる風は冷たいが、どうやらこの晴天に、一昨日の大降りがとけ始めたようだった。
 彼女は、一体どんな心境で今日を迎えたのだろう。それはもうすぐ明らかになる。しかし、それを待っていられない程に、俺は知りたい気持ちで焦っている。
 俺はこれからどうなるのだろうか。一時間後の未来が怖い……。おそらく、それは、笑顔か……、それとも……。
 彼女の声が俺を呼んだ。俺は慌てずに、それにすっきりと反応できた。
 何かが、始まったのかもしれない……。
 すっきりとした表情の反面、内心では恐怖によく似た感情を抱いていた。
「突然に呼び出して、すいません……」
「いや……」
 その彼女の言葉に、違和感を覚えた。
「君も、待たせちゃって、ごめんね」
「いいよ~別に~」
 彼女は俺に「すいません」と謝った後、すぐにその子供の頭を撫でた。しかし、それは薄々勘づいていた。おそらく、その子供はこの筒井家の親戚にあたる子なのだろう。
 俺の話が終わった後、何かがあるのかもしれない。田舎から筒井さんの家に遊びに来ていて、遊んでもらえるのを待っているのだろう。
 そんな事を考えていると、彼女が子供の眼線から、俺に視線を移して立ち上がった。
 実に真剣な表情ではあるが、どこか、明るさの雑(ま)じった、そんな表情だった。
「なんて、言えばいいんだろ……」
 彼女は俺を意識して、確かにそう呟いた。
 激しい違和感を覚える。
 嫌な想像が、今にも頭の中で爆発しそうだった。
「どうしたの?」
 子供が無邪気な声を彼女に向けていたが、それを言いたいのは俺の方だった。
 嫌だ……。
 嫌な予感がする……。
「うん、あのね」
 彼女はまた子供に話しかける。そこで言葉は切られていたが、俺を挟んで子供に話しかけるという事は、言いだし難(にく)い事を、彼女が俺に話そうとしているのではないか?
 せめて、ならば良い事を彼女から聞きたい。
 俺は間接的に失恋してしまうのか?
 次の瞬間、俺は何の躊躇(ためら)いもなく、彼女に声を発していた。
「あの……、あやめさん…は、来ないのですか?」
 彼女は困ったような顔で、俺の事を見つめた。今度こそ、ちゃんとした、曇り顔だった。
「なんて言うか……、いいずらいんですけど……」
作品名:消えてしまう前に 作家名:タンポポ