消えてしまう前に
唾を吞み込んだ。しかし、呑み込む唾が足りない。今、囁かれる、その言葉を受け止めるだけの勇気が決定的に足りない。
筒井あやめは、やはり……、俺に別れを告げるつもりなのか……。
しかも、自分の妹を使って……。
頭が……――弾け飛びそうになった――。
真っ白に……――思考が中断される――。
たった今――、囁かれた筈の――、その一言に――。
筒井あやめへの――、俺の気持ちが……――、一時停止してしまった――。
「あやめなんです」
また、言った。
「雨宮さん……、私です」
何を、言ってる。
「筒井あやめとしてくれた、最後の約束を、私が受け止めます……」
何もかもが、さっぱりだった……。意味が、飛んでしまっている。
一掴みの思考だけが、その囁かれたよくわからない言葉を分析しようとしていた。
妹が……、俺を、好きだった、という事なのか……。
それも、よくわからないじゃないか……。
思考が破壊されそうだ……。
会いたい――。
はちきれてしまう程、彼女に会いたい。
もう、二度と、彼女には会えないという事なのか?
筒井さんは……、俺には会わないつもりなのか?
終わりだとしても、これが最後だとしても……、もう一度、彼女に……。
会いたい――。
黒く日焼けした顔を困らせたまま、筒井あやめの妹は、俺と、その親戚の子供の事を見つめていた。
陽気な熊の絵がプリントされた、黒いジャンパーをこちらに見せながら、その子供は路面に積もった雪に夢中になって絵を描いていた。
「大ちゃん……」
子供が彼女に顔を上げる。
「ん? な~にぃ?」
妹は、今にも泣き出しそうな、微笑みそうな、壊れてしまいそうな顔で、その子供に言った。
「あやめちゃんは、お姉ちゃんなの……」
「ねえねえ、あやめちゃんまだあ?」
「ごめんね……。大ちゃん」
「ねえ、まだあ?」
彼女は、俺の事を見つめた。
「雨宮さん……。ちゃんと、お話しします……」
俺は、その時に背筋を襲った悪寒のような、その例えようのない、何かに……――。心を消されていた。
「私が……、筒井あやめです」
その声は、この四年間に、愛しく感じ続けた……彼女の声だった。
13
私の家系は、遺伝子の特異体質なんです。初めてそれを知ったのは、私がまだ十二歳の時でした……。
「ゆうたい?」
「幽体離脱。あやめが起きている時にね、もう一人のあやめが、かってにどっかに行っちゃうの」
「どうして? 私は一人だよう?」
「そうなんだけどね……。そう、あやめはこの世であやめだけよ。でもね、これは誰にでもあることなの。そういう体質の人がいてね、それが、お母さんと、あやめなの」
「ふーん」
生霊みたいなものが、身体を抜け出して、勝手に歩き回ってしまう。それが、私の家系に、女性にだけ受け継がれてしまう特異性の遺伝でした。
それを聞いた時は、信じられなくて、とても怖かったけど、でも、お母さんからちゃんと話を聞いて、少しは安心できました。
「十二歳になって、少し経つと、それが始まるのね。でも、そんなのす~ぐ終わっちゃうから、なんにも心配しなくていいの。あやめが十六歳になったら、パッと終わっちゃうんだから」
霊感が強い人間は、その多くが遺伝なんです。幽体離脱をしてしまいやすい人も、遺伝がほとんどの理由だって、私は聞きました。
でも、私達の場合は、それが幽体離脱というよりも、生霊に近い感覚みたいなんです。何処かを勝手に歩いたり、誰かと話をしたり、そのもう一人の私は、私の意思とは関係なく、勝手に行動してしまうんです。
生霊と同じく、物に音を立てる事もできるみたいです。というか……、他の人間から見れば、全く普通の人間と変わらなく見えるんです。
常識では考えられない……、特異体質なんで……、信じてほしいとは、言いません。それは、ちゃんと私が、信じてもらえるように、説明します。
「ま~ず、最初に、これから大人のあやめが出てきます」
「まず、大人の私」
「そう。それから、どれくらいかすると、今度は、まだちっちゃかった頃のあやめが出てきます」
「ちっちゃい頃の私」
「そう。でも、それはあやめとはなんにも関係ないからね。あやめの生活にはな~にも変化はないの。ちょっとだけ、楽しい夢を見るだけだから」
「夢ぇ?」
筒井家の女が十二歳になるとそれは始まります。どういうわけか、まず最初に現れる自分の幽体は、未来の自分という事でした。でも、それは私には何も関係ないんです。姿も違うので、生活環境にも害は及びません。その大人の姿をした幽体が何の為に存在するのかはわからないんですが、それは、本当に私達とは何も関係がないんです。
次に、三年か、二年か、それはその人によって違いはありますが、子供の幽体が現れるんです。それは、大体が、自分の四歳から六歳の頃の姿だそうです。
この二つの幽体は、自分で考えて、自分で行動をします。詳しく説明する事はできないんですけど、たぶん、出現する日数やなんかは、全く決まっていないんだと思います。一応、これは病気という事で、発作として私達はお医者様と共に考えてきました。
私達は何も知らずに実生活を送れます。本当にその幽体は私達が操っているわけではないんです。
ただ……。私達は、その幽体がその日何をしたのかを、ほんの、少しだけ、知ることができるんです。
それは、夢の中でなんです……。眼が覚める瞬間に、私達はその日その幽体が何をしたのかを、走馬灯のように知る事ができるんです。でも、それは夢なので……、本当に、ほんの少ししか知る事はできません……。
「驚かなくていいの」
十二歳から突然に始まるその可笑しな現象は、十六歳になってから、少しすると……、パッと、完全に終わってくれるみたいなんです。
それが……、あの…今、みたいで……。
「ただ普通にしていれば、何もないから。安心していいのよ」
だけど、なんか……、全然、やっぱり、普通なんかじゃなくて……。
「すぐ終わっちゃうから、あやめが悩む時間なんてないの」
始めは……、本当に少しだけ、ただ、なんか変な感じだなって、そう…思ってたんですけど……。
「嫌じゃないのう?」
「ううん。全然嫌じゃないよ」
「苦しくない?」
「苦しくもない。な~にも怖い事なんてないから。ちょっとだけ、面白いの」
でもなんか……。それは……、その、私の夢で教えてくれる事には……、そこで、その私達が感じた感情も、記憶みたいに、教えてくれるみたいで……。
それで……。その、私達が、最後に……、雨宮さんと、大ちゃんにね。
ちゃんとした、お別れをしたかったみたいなんです……。
それは、たぶん私が言わないと……、二人には嘘に伝わってしまうから……。
だから私が、二人の私の意思を継いで、二人にそれを伝えました……。
14
雨宮昇の表情には、既にその衝撃的な事実を悟っている、そんな悲劇が浮かんでいた。
あやめは申し訳なさそうに、深々と頭を下げた。
柳大助は、まだ雪に絵を描いている。話された内容は、まだ理解できる筈もなかった。