無題
シュレディンガーの猫、という思考実験がある。
簡単に説明すると、一時間以内に50パーセントの確率で毒が発生する装置と猫を箱に入れた場合、箱の中の猫は生きているか否か、という思考的な実験だ。
思考実験なので実際に実験が行われたわけではないが、この実験では、箱の中の猫は生きている状態でありながら死んでいる状態でもあると解釈される。そして、誰かが箱を開けて観測した時、初めてどちらかの状態に確定するのだ。
――なぜ今、そんなことを思い出したのか。
それはこの状況のせいだ、と黛千尋は自問自答する。
東京から京都へ帰る新幹線の隣の座席で、高校時代の後輩がうたた寝していた。両目の赤い兄と、赤と橙色のオッドアイの弟。二つの人格を持つ、赤司征十郎だ。
(目を開けるまで、どっちか分かんねえんだよな)
寝顔を横目で見ながら、黛は心の中で呟く。
生きているか否か、などという物騒な話ではない。今、目の前で眠っているのが、兄なのか弟なのかというだけの話だ。
赤司が起きていれば、目の色で確認せずとも、言動や雰囲気だけで黛は判別できる。だが、眠ってしまえば、寝言でも言わない限り分からない。答えは、目を覚ました赤司を黛が観測した時に初めて決まるのだ。
(別に、どっちでもいいケド)
思考をやめて、車窓に視線を転じる。
目を覚ました時に現れるのが、どちらだろうと構わない。兄のほうだろうが弟のほうだろうが、赤司は赤司だ。
ぼんやりと流れていく景色を眺める。窓から見える景色が、次第に見慣れたものに変わっていく。
目的の駅が迫ってきて、降車を促すアナウンスが流れてきた。
後輩の寝顔に視線を向けるが、目を覚ます気配はない。
「おはよう、おぼっちゃん」
自分だけ悠々と寝やがって、という皮肉を込めて、黛は赤司を揺り起こす。
赤司が目を開けて、二つの瞳を黛に向けた。