シロとニーア
兄に負担をかけることを嫌がったヨナだったが、ニーアにお願いされてしまうと、言う事を聞かざるを得ない。なんだかんだでこの兄妹はお互いのおねだりに弱いのだ、とシロは理解していた。
鍋に残ったシチューを黒パンですっかり綺麗にさらえると、ニーアはその鍋にたわしを入れて外に出る。庭にはほどよく水が湧いており、彼はたまの帰宅でヨナにご飯を奮った後はそこで洗い物をしてるのだ。
鍋を抱えた手で窮屈そうにドアノブを開けたニーアは背中でドアを支える。自分のために開けてくれているのだとわかったシロは胸に沸く喜びを押し隠し、声を上げた。
「全く、お主ら兄妹はよく似ておるな」
「そう? でもヨナは可愛いよ!」
そういうことではない、と一喝しつつ、ドアを閉めて歩き始めたふわふわとニーアの後を飛んでいく。本に水は天敵なので、屈み込んだニーアからは距離を取っているが、会話をするのに問題ない距離だ。
「外見ではなくてだな、もっと内面が似ておる」
「内面ねぇー……あんまり気にしたことないからわかんないけど、ヨナは僕より全然いい子だよ?」
「お主も大のお人好しであるがな」
そのおかげで何度面倒に巻き込まれたことかとぼやきに繋がるのを、ニーアはいつものことだと流して、たわしで鍋を擦る。シュッシュと今では貴重となった金属の擦れる音が小気味よく響いた。
「ヨナはさ、ホント僕となんか比べものにならないほどいい子なんだよ。だから僕と比べたらダメなんだ」
ともすれば、たわしの音に紛れてしまいそうな声の小ささだったが、シロの耳には確かに届いていた。けれど、珍しくも彼の沈むような声音に、聞こえなかったふりをすればいいのか慰めればいいのか頭を悩ませた。実に彼らしくないことだ。偉大なる白の書の知識を振り返ってみても、その場合どうすればよいのかとの答えはどこにも載っていない。その検索結果に狼狽え、我に知らぬことなどないのだと己を奮い立たせて、どうしようかと考え、そして面倒になった。何故我がこやつのために悩まねばならぬのだ、我のしたいようにすればいいのだ。そう結論づけたシロは口を開く。
「我が思うに、ヨナはヨナの良さがあるし、お主にはお主の良さがある……ぞ?お主らが似てると不用意に言ってしまったのは……その、少々我が悪かったような気がしないでもない」
素直になれないため、謝罪らしきものを早口で述べた。シロなりに自分の下手な一言がニーアの何かしらの傷を抉ってしまったのではないかと反省してはいるのだが、どうしても素直には言えないのだ。ニーアは動かしていた手を止めて、肩越しにシロを振り向くとはんなりと笑った。大声で笑う彼らしくない静かな笑みで、夜ということもあっていつものニーアとは違うようでシロはちょっとドキドキした。
「もーシロってば何言ってるのかわからないよ!」
「なんだと!せっかく我が珍しくも神妙な態度に出たというのにお主という奴は!」
「シロが神妙って似合わないからやめたほうがいいよ」
「言わせておけばこやつめ!」
前に向き直ったニーアが笑い混じりでいつもの彼らしい物言いをしたので、シロは内心ホッとした。やはりこやつはこうでないといかんな!いつもの慣れ親しんだ空気がシロを包み、先程のニーアの妙な態度を忘れさせた。
庭の池で鍋を洗って帰ってみれば、お兄ちゃんの帰りを待っていると眠気眼で机に頬杖をついていたヨナは寝息を立てていた。苦笑したニーアは優しく彼女を抱きかかえると二階へと昇っていく。シロはそれにはついて行かず、彼のベッドの上に倒れ込んだ。気がつけばずっと飛んでいる我であるが、こうしてべっどなるものに横になるのも悪くないことだ。そんなことをつらつらと考えていると、足音を殺したニーアが階段を下りてきた。どうやらヨナはそのまま寝入ってしまったらしい。彼女を起こさぬように気を使っている様子から、シロは悟った。
「僕らもそろそろ寝よう」
いつかの釣りの時のようなささやき声でニーアが言った。同じくシロが囁きで肯定すると、彼は帯刀していた片手剣を外してベッドの脇に置いた。家で寝るときくらい剣など遠くに置いてしまえ、と以前シロが言ったことがあった。その時、この家こそ僕が守らなくちゃいけないから一番気を抜けないんだよと剣をたぐり寄せながら返されたので、もうシロは何も言わない。
ただ、ごそごそと服を脱ぎ始めたニーアにおやすみを言おうとふわりと浮き上がったちょうどその時だ。彼が縛り上げていた髪をほどき、その流れる髪に月明かりが反射してキラキラと光が舞った。自分が何をしようとしていたのか忘れるほどに呆然と見入ってしまったシロは、自分の名を何度か呼ばれることで我に返った。
「シロ、どうしちゃったの? ページでも破れちゃったとか!?」
「馬鹿者、そのようなことあるわけなかろうが!」
どちらとも囁き声なので迫力はない。
「ただお主は髪を下ろした方が……男っぷりが上がるな」
さすがに少年に向かって綺麗と言わないだけの分別はあったので、少し言いよどんでしまったが、うまいこと言い換えることが出来たとシロは思った。
「うーん、そう?でもちょっと髪を下ろすのは苦手だからさ。いつかは平気になると思うんだけど、今はまだ」
「奇っ怪なこともあるものだな」
「そうだね」
そう返したニーアの声が、鍋を洗っているときに漏らした声と同じトーンだったので、また自分は地雷を踏んでしまったのだと遅ればせながら理解した。どうしよう、どうすべきか。しばし悩んで、シロは諦めた。
「寝よう」
「うん、おやすみシロ」
「おやすみニーア、よく眠るのだぞ」
「シロこそね」
我は眠りはせぬわと軽口を叩いて、黙り込んだ。例え自分が眠れる本だったとしても、今日は寝られないに違いない。迂闊に友の古傷を二度も抉ってしまった自己嫌悪で悶々としていた。
いやはや知識だけあっても何にもならぬわ。シロはそっとため息を漏らすと、目を閉じた。