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ダージリンのおすそわけ

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「ねえ」

いたく機嫌の良さそうな声。
背中にかかった声に、エーリッヒは書類から目を上げた。

「何です?」

首だけ振り返ると、テーブルに頬杖をついたミハエルが、紅茶の湯気を鼻先に受けながらこちらを見上げていた。
エーリッヒはマシンのデータを打ち出して、それをチェックしていたのだが、紅茶は二人分用意されていて、エーリッヒの分も同じようにテーブルの上で湯気を立てている。
冷める前に飲まなければ、とは思うが、一度仕事を始めてしまえば中々離れにくくなってしまうものだ。

「へスラー、どこ行ったの?」

「今日はオフなので、ビリヤード三昧だそうです」

ふうん、とミハエルがお茶菓子をひとつ摘んだ。
ぱくりとそれを口の中に放り込んで、僕も今度教えてもらおうかな、ビリヤード、と呟くのに、そうですね、きっとへスラーは教えるのうまいでしょうね、と答えた。
彼の腕前は一度披露してもらったことがあるが、挑戦したチームの誰もへスラーには敵わなかった。
シュミットが密かに結構悔しがっていたのは内緒の話だ。

書類に目を戻す。
かさりと紙面をめくると、今期の成績とマシンデータのまとめとが載っていて、それを参考にどう調整をかけようかと思考を巡らせる。
次のミーティングまでにまとめて、シュミットに相談をして、それからミハエルに指示を仰いで、と今日はオフには違いないが、エーリッヒにはやりたいことがたくさんある。
オフならば何かチームから離れて好きなことでもすればいいのに、と、アドルフには言われたが、元々機械いじりが趣味というエーリッヒだ。
マシンをいじっているのが実は一番楽しかったりする。
その延長で、データから分析してどう調整をかけるか、どうメンテをするか考えるのも楽しい。
それをわかっているからだろう、シュミットも分析はすっかり自分に任せてくれた。



「ねえ、」

「はい」

また呼ばれて、顔を上げる。
今度はミハエルは、カップを手に持って紅茶を一口飲んだところだった。
おいしいね、これエーリッヒが買ってきたやつかな、と尋ねられて、そうですと答えると、さすが僕の好みわかってる、と笑顔が返るので、自分もつられて笑顔になった。

「ところで、今日はシュミットは?」

「馬の世話をすると言っていましたよ。普段あまり構ってやれないので、と」

ふうん、と呟いて、ミハエルが頬杖の姿勢に戻った。
両肘をついて、軽く握った甲の上に顎を乗せる。
小さくひょいと首を傾けて、

「今度みんなで一緒に遠乗りでもする?」

「そうですね、シュミットがいい場所を知っていそうですし」

「じゃ、約束だね」

「はい」

正直に言うと、あまり乗馬は得意ではないのだが、シュミットに付き合って(付き合わされて?)だいぶ上達してきてはいるので、まあみんなに遅れない程度についていけばいいかと内心で考える。
この前二人ででかけたところは豊かな木が多くて空気もよかった。
自然あふれるあの環境なら、ミハエルも気にいるに違いない。
そこまで考えて、また、書類に戻る。
連携技の精度が上がれば、もっとチーム全体のタイムは上がる。
一人ひとりの技術ももちろん重要だが、チーム戦で参戦するのだから、アイゼンヴォルフは特に連携技に重きを置いている。
次の調整も、そこに重点を置いてみるかと考える。



「ねえ、」

三度呼びかけられて、今度は反応が少し遅れた。
頭の中はすっかりマシンの調整についてに占領されかけていたからだ。

「なんでしょう」

「じゃ、アドルフは?」

「ピアノのコンサートがあるんだそうですよ。好きな演奏家が近くに来てるんだとか」

「え、そうなの」

一緒に行けばよかった、とミハエルが少し残念そうな顔をした。
アドルフのピアノは度々聴いているが、昔から弾いているという彼の腕前はなかなかのものらしい。
そういう方面に指も耳も鍛えてこなかったエーリッヒにはよくわからないが、アドルフの演奏をミハエルはいつも楽しそうに聴いている。

「アドルフ、誘ってくれたらよかったのに」

「…今度は誘うように、言っておきますね」

うんそうして、とミハエルが外を見た。
ちょうど小鳥が飛んできて、窓脇の木の枝にとまった。
何という鳥かはエーリッヒにはわからないが、ミハエルはそれを見て少々目を輝かせたようだ。
それを確認して、小さく微笑んでからエーリッヒはまた、書類に戻る。
エーリッヒはシュミット連携をとることが多いのだが、こだわらずにアドルフやへスラーとの連携ももっと精度を上げなければ、と思う。
台数限定のレースでは、確かに自分たちが出場すればいいが、5台での参戦時にもっと全体のタイムをあげる必要がある。
二人に連携技の練習を増やすことを提案をしてみるか、と心に決めて、紙面をめくる。
めくると、ミハエル個人のデータのまとめが目に飛び込んでくる。
チーム内で圧倒的な強さを誇るミハエルのデータは、見ていてとても心強い。
無邪気に鳥を眺めて喜んでいる彼と同一人物だとは思えないほどに。
ちらりと目を向けると、てっきり窓の外を眺めていると思っていた視線は、しかし自分のそれとぱちりと合わさった。
ちち、と小鳥が鳴いた。
木の枝を小さなくちばしでつついて、枝が揺れる。
そんな光景には目を向けないで、ミハエルはエーリッヒを見ていた。

「ねぇ、エーリッヒ」

「はい?」

ミハエルが頬杖をついて、両手の甲に小さな形のよい顎を乗せて、首を傾けて、微笑む。

「エーリッヒは?まだ、データの分析?」

「はい。なかなか終わりませんね。好きでやってはいることではあるんですが」

「そっか、」

頷きながら、ミハエルが椅子から立ち上がった。
ミハエルはいつでも身軽に動くので、あまり音もたてない。
カタリと小さくだけ椅子の音がして、とんとんと近づいてくる。

「じゃあ、」

「ミハエル?」

くいと腕をひかれて、身を屈める。
書類をもったのとは逆の手首を掴まれた。
目線の高さが同じになって、きらり、緑の綺麗で大きな瞳が光を受けて輝いた。

「おすそ分け」

言葉と同時に近づいた顔が、目の中いっぱいに広がる。
ふいをつかれて反応が遅れて、反射的に引きかけた身が後ろに下がるより早く、唇に、ダージリンが香った。

「がんばってるエーリッヒにね、」

すぐに離れてふふ、と微笑まれて、エーリッヒは頬を熱くした。
唇を片手で覆うと、かえって触れ合った感触が増すようで、また頬に熱が集まる。

「…僕の分、紅茶、別にあります、けど、」

「もう冷めちゃったよ」

だから、僕からおすそわけなんだよと、悪戯めいて微笑まれた。

「………ありがとう、ございます」

礼を言うのもおかしいような気がするが、ミハエルはうんとご機嫌に微笑んだのだから、いいのかもしれない。

「うん」

がんばってねともう一度唇が寄せられて、今度はそれが頬に落ちる。

「………はい」

今度はそれを落ち着いて受け止めて、エーリッヒは微笑んだ。
元々、嫌々やっている作業ではないが、確かに、これなら今日は一日がんばれそうだ。
腕に絡みついてくるミハエルのそれを感じながら、エーリッヒは作業を再開すべく、手元の種類に向き合い直った。