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吸血鬼の椅子

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 足下で暖炉の火が燃えている。
 直接目にしたわけではないものの、肌を通して伝わる熱から容易にそのことが知れた。椅子が設えられているのは、その暖炉から遠すぎもせず近すぎもしない場所だ。おそらく応接間であろう部屋に家具一式を運び込んだ者はよほど心配りのできる人間に違いない。冬になると冷え込む部屋の暖房器具は暖炉しかないから、遠すぎれば建物自体が体温を奪っていく。暖炉の近くへと椅子を動かせばいい話なのかもしれなかったが、あいにく滅多なことではこの椅子は動かされなかった。見た目に反してかなりの重量があるせいだ。使用人を呼んで数人がかりで動かすこともないではなかったが、普段できることといえば、せいぜい膝にかけるブランケットを持ってくるように使用人に命じる程度で、かじかむ冬の寒さをしのがなければならない。
 椅子の猫足が毛足の長いカーペットに据えられてからはしばらく時間が経っているはずだった。カーペットは定期的に洗いに出されるが、今は冬だから洗濯物の乾きも悪いらしく、夏ほど頻繁に洗われるわけでもなかった。仮に洗いに出されたとしてもほとんど同じ場所に椅子が置かれ、カーペットが戻ってくるとまた置きなおされる。去年の冬も、一昨年の冬も、その前の前の前の前の冬から、椅子と暖炉との距離はついぞ変わらなかった。
 向かい側にも椅子がある。足下にしかれるカーペットはないのか、招かれた人間が椅子に座るときの足音が振動になって床を伝わった。二人がけの椅子だ。こちらも相当重いはずだが、時たままるごと椅子が取り換えられることがあった。屋敷の主人の好みに会う椅子がなかなか見つからないらしい。多分、猫足の椅子が恐ろしく豪奢なせいでつり合いが取れないのだ。骨組みやバンドやクッションをとめるピンに至るまで銀が用いられている猫足の椅子は、朝夕部屋に出入りする使用人の手によって磨くことができる部位の金具は全て磨き込まれていた。骨組みにまで銀を使うことのこだわりは今ひとつ理解ができなかったが、金に飽かせた贅の極みなのだろう。そのせいで重量がある。金でないところにもまた好感が持てた。何せ手入れの手間が段違いなのだ。金もくすむが手入れに要する手間は銀の程ではない。金具を磨き上げることによってこの家具を大切に扱っていることを奥ゆかしく誇示することができる。
 皮張りのクッションも同様に手入れが行われた。二日に一度はぬるま湯で濡らした布巾で全体が拭われたあと、保湿が行われ、週に一度は皮に染みこむ独特の臭気のあるクリームを余すところなく塗られる。定期的な点検や修理には家具職人が呼ばれた。屋敷の主人は時々変わるようだったが、呼ばれる家具職人はいつも同じだ。切りそろえられた爪の角が肉に食い込んでいるような、細く冷たい指で椅子の肌に触れて、皮の質感や肉のつまり具合を確かめてから補修をはじめる。椅子の皮を切るような事故が起こると、通例二日、早ければその日に呼ばれて即座に傷の修理にあたった。おそらくこの椅子を作った職人なのだろう。傷は特殊な縫い糸で傷を繕うこともあったし、何かの器具を当てて――肉を足す器具なのだろう――しぼんでしまった皮を元に戻すこともある。糸は数日すると溶けて無くなり、肉を足す器具を使うとまた元のようなふくよかな皮に戻った。この椅子の魅力は皮にあるらしい。時折客かと思われる人間が、はじめは物珍しそうに、こわごわと肘当てや座面の皮に触れて、そのうち掌全体でなで回すようにあちらこちらに触れはじめ、やがて椅子にしがみついて離れなくなる。座面や背面以外の部分にも皮が貼られた椅子はほんのりとした暖かみがあるのか、外から帰ってきたばかりの人間が、手袋だけ外して、冷え切った指先を暖めるようにたたずんでいることも度々あった。
 屋敷の主人が、というよりも椅子の主人が変わるとしばらくするといつもの家具職人が呼ばれる。普段は使用人が行う手入れを一通り行ったあと、また去っていく。手入れの方法を教授するための実演なのだろう。湿気のこもりがちな夏はいつもより丹念に皮の表面が拭われたし、暖炉がたかれて乾きがちになる冬にはこまめにクリームが塗られた。椅子に腰掛けるのは主に屋敷の主人で、時折招かれた賓客がその椅子に座る。さらにその目を盗んでこっそり、ほんの短い間使用人達が椅子に座ることもあった。使用人の中にも椅子の虜はいる。
「どうかあの椅子を私に譲るよう、主人に交渉してくださいませんか」
 今家具職人に言いつのっているのはその使用人の様だ。
「私の口からは申し上げにくいことでも、先生の口からであれば別です。私がこの椅子を欲しがっていることについて、先生から口添えがあれば、主人も考えるはずです」
「私はただ修理に伺っているだけなので」
 ご進言などとても、と答える男の声はいつでも若い男の声のままだった。
「吸血鬼の椅子ともなればやすやすと手に入るものでもないのですから。一人がけの椅子でおよそ普通の人間の一生涯分の貯えが飛ぶとお伺いしています。それにあの椅子は別格です。失礼ですが──」
「金額のことならなんとでも」
 長年頂いたお給金もこのためにためていたんです、と言い切る男の声は既に老境に差し掛かっていた。この声には聞き覚えがある。椅子の修理や手入れのために何度か家具職人の工房を訪れている老人だ。おそらく椅子のある屋敷の使用人なのだろう。声の具合からしてもおそらく執事相応の職位なのだろうなと思った。貴重な椅子であるならば、椅子を修理する家具職人にもそれなりの敬意を払う。まさかお仕えしているお屋敷にあのような椅子があるとは思いもしませんでしたが、と執事が言って、そこでたんが絡んだのか空咳を繰り返した。
「あの椅子のために、私はお屋敷に入ったようなものです。生涯、私は財産というものを持ったことはありませんが──物心ついた頃には父が作った負債に追われて、そこに私が生きていくためにどうしても必要だった負債と加えて、ようやく完済し終えたのが三十少し手前――私がこの椅子のことを知ったのも丁度その頃です。質素倹約は身に付いております。身を飾ることも同好の士と集うこともない。もとより孤独の身の上です。生涯の伴侶にあの椅子を購いたく存じます」
 ようやく喉が落ち着いたのか、それにこのところ私がここに伺う機会も続いておりますことですし、と低い声で続ける。
「きっと寿命が近いのでしょう。どんなものにだって寿命はある。吸血鬼にすら」
「そりゃあ銀の弾丸で撃たれたり、心臓を杭で打たれたりしたらさすがに吸血鬼も死にますけど」
 私があの椅子を作ってからそんなに時間が経っていたのですねとため息交じりに家具職人が答えた。
作品名:吸血鬼の椅子 作家名:坂鴨禾火