新しい世界
「先ほどありましたが、義務教育という物でさえ、最近ではそれを勘違いしている大人も沢山いるようです。義務教育は大人に与えられた法律です。子供が法に縛られているわけではありません。法律に従って子供達が義務教育を全うするのではなく、法律に従って大人が子供にそれを義務付けられているのです。義務教育がここで良い例になりますが、そう言った子供達の為に用意された法律は全てそれを保護している親の責務になります。子供の為に、常にこの考えを忘れないよう、私達も少年犯罪と向き合わなければならないと思います」
――眼が届く範囲に子供を置くのではなく、常に眼を剥けてやれるのは自分だけだと責任を忘れぬ事なのだと私は思います。限りなく可能性ある未来、子供達を救ってあげられるのは我々大人だけです。子供達の悲しみに触れてあげましょう。常に子供達の悲しみを探ってあげましょう。どこかで必ず、微々たるSOSが発信されているに違いありません。子供は単純で不器用とは限りません、我々大人がそれを見つけてあげましょう。――絢音はそう結論して、講演を終えた。
5
「どぉも詭弁だなぁ……」
堀はもうもうと立ち昇る煙に眼を瞑る。
「絢音の話にはどうも子供に犯罪意識がない、全部大人が悪いみたいな言い方……」
「未央奈吸い過ぎだよう?」
新内は痛そうな涙眼で顔の前の煙を掃った。
「こんなじゃ二十年後に肺がんでぽっくり逝っちゃうぞぉ~未央奈」
「対処策とか抜かしてたのだって、署じゃしょっちゅう話の的になる。気がつけばバイオレンスを防ぐだの、いやなんだのって社会のせいにしやがる、どぉもあの考え方が私にはわからんわ」
講習会終了後、絢音は室内に残り、滝を含めた数人の参加者達と緊迫感の解けた話し合いを始めていた。――尚、真っ先に喫煙所へと向かった新内と堀はそこでそのまま絢音が来るのを待っていた。何でもちょっとした話があるとの事である。
「そういえば、あれどうした?」
「は?」
突然その表情と声を明るいものに一変させた新内に、堀は顔をしかめた。
「葵(あおい)ちゃんが未央奈とライブに行きたがってたでしょ?」
新内は旨そうに煙草を咥える。素早く煙を吸い込み、その表情を変えずに煙草を口から離した。
「ん? 自分の愛娘の事、忘れちゃってた?」
堀は肩で溜息をついた。頑固そうな顔が一層頑固に眉間を寄せる。
「行きたくないんだけどさぁ……、そうも言ってらんないでしょう」
堀は片手を腰に付けて不味そうに煙草を吸った。
「一昨年の誕生日は私が不在で、葵一人にケーキ食べさせちゃったし、去年なんかは誕生日すらすっかり忘れてた」
「あんた…、それはちょっとひどいよ?」
新内は険しい顔で笑う。
「葵ちゃんが言わなかったの? プレゼントちょうだいとか、普通言ってくるでしょう」
「それがさあ、あんときゃ葵にしてやられたのよ。私がちゃんと自分の誕生日を覚えてるのかどうか試したのよ。当日まで何も言わなかったの」
堀はまいった顔で――すっかり忘れてた――と苦笑した。
「そりゃもう行くしかないじゃん」
新内は納得して頷いた。
「んで、誰のライブに行くんだっけ? 矢沢永吉?」
「馬鹿ね、そんな味のわかる年齢じゃないわよまだ、うちの葵は」
堀は煙草を灰皿で消した後、――乃木坂だよ、乃木坂――と言って渋く頭を掻いた。
「ノギザカ?」
新内は不思議そうにその名前を復唱した。
「前も言ってたね確か……。純和風系のバンドか何か?」
堀は渋い顔のままで新内をぎろりと一瞥する。――新内は涼しい顔で返答を待っていた。
「あんた、今どき乃木坂も知らないわけ?」
堀は渋い表情を少しだけ微笑ませた。
「乃木坂フォーティーンシックス、乃木坂フォーティーン、シックスよ」
「ノギザカ、フォーティーンシックス? ノギザカ、十四と、六か」
新内は――なんか確かにゴルゴサーティーンみたいだな、前に言ってたよね?――と笑った。
「仕事柄そういう事に詳しくなっちゃってねぇ~、インターネットの補習を受けてる時に乃木坂を知ったのよ。したらあんた、うちの葵がその子らのライブに行きたいとか言い出してさぁ……」
「どんな歌手なん? まさかヘビーメタルじゃないでしょう?」
新内はくくと馬鹿にして笑う。
「そんなチカチカしたもんじゃないと思うけど、まぁ若い子らの良いってのは、つまり良くないって事だからさ。全く…まいったもんよ」
――男なの?――と言った新内に、――そりゃ乃木坂フォーティーンシックスってぐらいよ、アニメ関係のなんかでしょうどうせ――と堀が答えたところで、先ほどの講習部屋から絢音達が出てきた。
お疲れ様でした――と囁かれる声を後に、絢音は三本目の煙草を吸おうとしていた二人に――お待たせしました――と澄ました挨拶をした。
「話って何よ?」
待ちに待ちかねた表情で堀がすぐに言った。
絢音は頷く。しかしすぐには話そうとしない。鞄から煙草を取り出していた。
「あれ、お嬢吸うんだ?」
新内は驚いた顔でそれを見る。
絢音は細長い煙草を口に咥え、これまた細長いライターでチャっと火を灯してから――ええ、初めから吸っていますよ――と微笑んだ。
初めからとはどういう意味だろう、と堀は顔をしかめたが、それだけにした。そろそろ酒が吞みたいと身体が言っているので、用件を優先する。
「で、何よ一体?」
堀は促(うなが)すように絢音を睨んだ。
絢音は短く煙草の煙を吸い込み、それを余所に吐き出してから、ゆっくりと澄ました表情を作った。
「実はね、堀刑事……」
集会のあったビルの正面玄関で、新内と堀は絢音と別れた。すぐ近くにある有料駐車場に新内の愛車が停めてあったので、堀が絢音に――あんたも乗ってく?――と尋ねたが、絢音は柔らかくそれを拒否した。
二人は新内の愛車であるカローラ・スポーツに乗って車を走らせる。向かう先は四ツ谷の赤提灯〈自惚れビーチ〉である。
信号待ちになったところで、先ほどまで腕を組んだまま黙りこくっていた堀が、突然口を開いた。
「私の話って……、そんなにわかりずらいの?」
「え?」
新内は車を発車させるのと同時に堀を一瞥した。堀は難しい顔で前方の景色を睨んでいる。
「真意を隠すとか抜かしてたわね……。あんたも、そう思うの?」
堀は前方を睨みながら新内にきいた。
「私は付き合いが長いからねぇ…。思わんさ」
新内は爽やかに答えた。その顔は笑みを浮かべている。
「じゃああの絢音の語り草は何よ、あれじゃ私が何かをはぐらかしてしゃべってるみたいじゃない……」
堀はその表情と体勢を替えない。変わるのは眼に映る景色だけである。
「何よなんなのよ、私はそんなに遠回しな言い方をするってか?」
――そうは思わないって、言ったじゃん――新内は肩でふふんと笑ってみせた。
次の信号待ちに入った時、車のエンジンは一度落ち着いたが、堀は逆に円陣を噴かしていた。
「くっだらない答弁を繰り返してもしょうがないでしょ、作麼生説破(そもさんせっぱ)しなきゃあ解る事も解らなくなっちゃうじゃない、そっちの方が真意ってのを隠す事になるんじゃないの?」
堀は怒っている。