新しい世界
新内が煙草を用意しながらいく。
「いけないんだってさ……」堀は新内を一瞥して、面白くなさそうに呟く。「乃木神社じゃないってば。ババア? あんたの頭って……」
「葵ちゃんにそれだけ拘(こだわ)ってもらえるなんてね、そのノギなんとかって奴は幸せだね? ね?」
新内はバシと堀の背を叩く。
「あんたも羨(うらや)ましいんでしょう?」
堀は少しだけ照れながら、――ふん――と鼻息を吹き出した。
「しっかし、じゃあ帰ったら由(ゆ)真(ま)にきいてみるかな……」
「あん?」堀は火照った顔で、中途半端に新内を見る。
「ノギなんとかだよ。どんなハンサム君なのか、知りたいでしょう?」
新内はそう言って笑った。
「うちの由真はアドと、ラッドウィンプスと、ミセスグリーンアップルだからさ、似たような長い名前だから、きっと同じような歌手だと思うよ。アドってのは、天才天才言われてる謎の女歌手だし、ラッドウィンプスぐらいは知ってるでしょう? 君の前々前世が~って、知ってるでしょ?」
「そのミセスグリーンアップルってのは、どんな姿形してんのよ。男? それとも女?」堀は座った眼できいた。
「そうだなぁ……。なんかなあ、男の子なんだけど、綺麗な顔してんのよ」
――綺麗な顔ぉ?――堀は海賊の船長のような荒い言葉遣いで言った。
「男なんだけどさ、ほら、今流行りの、韓流みたいな? 化粧をしてる人達。みんなしてんじゃない? 今の男子って」
――イケメンよ、イケメン――新内は最もそうに説明した。
「化粧……。忌野(いまわの)、清志郎(きよしろう)、みたいな感じか?」
堀は驚いた顔でグラスを一度持ち上げ、口に付けずに、またそれを置いた。
「じゃあ何よ……、こっちの、乃木坂もか?」
――ひょっとしたら、イケメンだろうな――という新内の言葉に、堀は世界一不味い料理を食っているような顔をする。
「アドとラッドウィンプスとミセスグリーンアップルは、そう悪いもんでもないよ、悪い事は教えてないみたい。部屋中ポスターだらけにはされたけどね、まあそれも年頃だから、下手な男に捕まるよりは安心でしょ」
――乃木坂、葵は渡さないわよ――
「はあ? 何? 何か言った?」
「いんや……」
「ふ。あそう」
新内は可笑しそうに微笑み、遠くにいる大将にお替わりの手を挙げた。
6
ひやりと冷たいまくらのシーツが頬に触れる。
「…ん、…んん……」
薄く眼を開け、眼前を囲う室内に定まらない視線が漂う。
「んぅ……」
葵は眼を覚ました。
「なぁんじ?」
すぐに起き上がって、ベッドの横棚に置かれている目覚し時計を確認した。時刻は午前八時十分であった。
葵はそのまま、視線を目覚し時計の後方にとどめ置いた。そこにはブラックの小洒落たゲーム専用のノート・パソコンがある。遮光カーテンで窓からの陽光を絶たれている室内には、そのノート・パソコンのディスプレイから発する青白い光が綺麗に点灯して見えた。
葵は、まだ少し睡眠を欲しがっている眼を擦りながら、ゆるりとベッドを立ち上がる。そのまま部屋を退出し、まずは真っ直ぐにお手洗いへと向かった。
十月十四日のこの日は、堀葵(ほりあおい)の、十回目の誕生日である。
お手洗いを出た後は、葵はすぐにそれを思い出し、早々に母の寝室へと慌ただしい脚音を立てる。
昨夜、葵はなかなか寝付けずにいた。十回目の誕生日であるこの日、葵は母に大好きなアーティストのコンサートに連れて行ってもらう約束を取り付けていたのだ。刑事という忙しい職務についている母にお出掛けを熱望する事は難しい。要求だけならば自由であるが、やはりそれを通すとなると、それは難しい。「困らせないで」の一言なのである。
葵がこうして共に外を出歩く事は、やはり年にそう何度も無い。二年に一度である事もしばしばであった。母の事情を理解し、普段それに尊敬と誇りを感じている葵ではあるが、やはり己の誕生日も年に一度しか来ない。母を好きである事は、イコール一緒にいたい、という素直な要求に繋がるのだ。
この日葵は、何年かぶりに、早朝から笑顔を作っていた。
「お母さん……」
遠慮がちに母の寝室を開け、小さく葵は囁く。
「お母さぁん……」
しかし堀は、枕に脚を乗せた奇妙な体勢で眠りこけていた。
葵はしばらく母の豪快な寝息に耳を清ましていたが、やがては溜息と同時に母の布団へと脚を進めた。
「お母さぁん……、お母さぁん……」
「んー、んん……、はい、よ」
目覚し時計と背広以外には箪笥と鏡しかない質素な部屋。そのシンプルな室内に、堀の不気味な寝ぼけ声が響いた。
葵は一瞬だけ不安な顔を作り、またすぐに堀の太ももを揺すり始めた。
「ママァ…、ねえママァ……。そろそろ起きないとぉ…」
葵は無反応な母に泣き出しそうな表情を作り、揺すり続ける。
「遅れちゃうよぉ…ねえってばぁ……痛った!」
首を掻きながらぎりぎりと歯軋りを立てた堀の左脚が、葵の腹を蹴ったのであった。
「ちょ……痛った」
葵はついに堀の態度にその表情を見せる。
「朝だって言ってるでしょ~~~っ‼」
不満足な寝ぼけ顔でしぶしぶ起きてきた堀は、そのまますぐに洗面所へと向かって行った。葵はそれを見送ると、幸せそうな顔で、さっそく料理を作り始める。
二人で朝食のオムライスを間食した頃には、出発にちょうど良い時間になっていた。
「葵、あんたは……、日記とか、付けないの?」
雑に背広を羽織りながら、堀が鏡越しにきいた。
「付けてるよ」
葵はすでに全ての身支度を整えていた。二人は、ダイニング・キッチンの隣にある書斎にいる。堀の私物は、目覚まし時計と背広以外、ほとんどそこにあった。
「夏休みの宿題とかの日記?」
「うん。それもある」
葵は後ろ手を組んで、フローリングを軽く蹴りながら答えた。
「じゃあ…、今ちょっと持って来なさい」
堀は腕を上げて背広を調整すると、葵を振り返って言う。
「宿題なら、母親が確認しなきゃならないでしょ」
「いいよ」葵は嫌そうに言う。
「いいから」
堀は視線を強めて言った。そのまま、堀はダイニングへと歩き出す。
「ほら持っておいで、まだ時間あるから」
「じ~かんなんてなぁいよぅ、だってママ知らないんだよ、あっち行ったら色々並ぶんだよ~?」
葵は堀の背中を追いかけながら、必死に訴える。
「タオルとかさぁ、プロデュースグッズとか買わなきゃいけないんだからね? グッズ買うのにすっごい並ぶんだよう? この前タナが言ってもん、だって」
「いいから、」
堀は威厳に面倒臭さを融合させたような顔で、葵のそれを遮(さえぎ)った。
「グッズでも何でもちゃんと買ってあげるから、いいから日記を持って来なさい」
「じ~かんが無いんだってぇ」
葵は泣きそうな顔で訴える。軽く地団太(じだんだ)を踏んでいた。
怪訝な表情を見せた堀であったが、結局、日記は家に戻ってからという事に決まり、葵はさっそく母と共に、念願のコンサートに出発する事となった。
車の中で幾度となく再生されるCDに、葵は口を酸っぱくして説明を繰り返す。
「好きというのは、ん?」
「ロックだぜ!」