新しい世界
「ロックだぜ。好きというのはロックだぜ、か……。乃木坂フォーティーン、シックス、でいいの?」
「だ~から、乃木坂46!」
葵は空気に、指文字で46を書いて顔をしかめる。
「フォーティーンじゃなくて、フォーティー! フォーティーシックス! 46!」
「ん~……。わかった」
「じゃあ言ってみて」
葵は澄ました顔で、堀の横顔を見据える。
「これは誰の歌? なんて曲?」
堀は両手でハンドルを握ったまま、――乃木坂46――と呟き、指文字で46を書いてみせた。
「なんて曲?」
「好きなんだからロックロールだぜ」
「好きというのはロックだぜぇ!」
葵は、しかめ面で微笑む。
「ん~……、わかった」
「じゃあこのグループは? なんて団体名のグループ? さっき言ったでしょ?」
「ごぼうの党じゃあないわね、ふふ」
堀は楽しげに片眼で葵を一瞥してみせる。
「そんなん当たり前でしょ~? もぉお母さんもう忘れたんでしょ~?」
葵はCDを他の物にセットし直しながら、また、堀に怒った。
「さっき言ったじゃ~ん」
「憶えてるよう」
堀は語尾を高く発音し、ふふん、と鼻を鳴らした。
「さかさまグループでしょう? 日向坂とか、櫻坂とか、他にもあるのよねえ? お母さん職場で教わったんだから」
「も~お~!」
葵は膝に置いていた缶ジュースを掴んで、肩を持ち上げた。
「全っ然違う~。坂道グループ~、お母さんが言うとみんな変になっちゃう」
葵はそのまま口を尖らせて、外の景色に微笑んだ。
「ん~……、もうわかった」
堀は険しい顔で小首を傾げていた。
コンサート会場に二人が到着したのは、十五時半過ぎであった。
混雑した会場前には、これから仮装大賞に出場するような恰好をした若者達が、我が物顔でそれぞれ固有の時間を過ごしていた。
「ねえ、コンビニに行った方がいいってタナが言ってた」
葵は輝く眼で景色を一望しながら、堀の手首の裾(すそ)を引っ張った。
「ねえ…、ねえっ!」
「んああ、はいはい、わかった」
堀は、犯人を取り調べる時に浮かべるような、驚異的な睨みを浮かべている。
「なに変な顔してんの。みんなアイドルのファンなんだからこれが普通なの」
葵はそう言って、堀の手首を裾を引っ張る。
「こんなの着てくる方が変なのぉ。ねえ聞いてる? コンビニぃ」
「ん、はいはい……」
堀はコンサートが終了するまで、終始そんな顔をしていた。葵が、母から眼を逸らすファン達を気遣い、何度も堀の表情を嗜めた事は嗜(たしな)めた事は言うまでもない。
帰りの車内では、終始、堀が乃木坂46に安堵の好感度を抱きっ放しであった。
車がレストランに到着した後は、毎年、ある年だけに恒例となっているささやかな誕生会の開始となる。指揮を執るのは無論、堀であった。祈ってやるのも、無論、堀の役目である。
年に何度の来店も無い店ではあるが、一応は行きつけとなっているレストランのドアを、堀は軽快に開く。仕事とは百八十度異なる緩んだ表情で、仕事の警戒ではなく、軽快に、ドアを開くのである。
「さ、好きな物を頼みなさい」
「うん!」
この日は、年にそう何度も無い、実に良い日であった。これも毎年とは到底言えないが、迎えれば必ず貴重となる一日である。業務に異常なほど振り回されてしまう刑事という職務柄、堀の娘にしてやれる事の大半が、この日一日に集約されていた。
「もっと頼みなさい」
堀は葵を見つめて、渋い笑みをこぼす。
「パフェだか、葵好きでしょ。全部頼みなさい」
「食っべれないよぉ」
葵は幸せそうに笑った。
テーブル上が料理で埋まり、そして、そんな皿が全て綺麗に片された後、主役であるショートケーキが堂々たる登場をみせた。事前に店側に頼んである為、最初の一品にだけ、毎年一本の蝋燭(ろうそく)が立っていた。
葵は満足な顔で母を窺う。
堀は登場してきたショートケーキを見て、うんむと頷いた。
「………。っふうぅ~~~!」
短い願い事を沈黙に消化してから、葵は蝋燭の火を吹き消した。
「いただきまぁ~す」
「一昨年は、確か三個だったっけ」
「うん」
淑やかに、生クリームを口に運びながら葵は頷く。
「じゃあ、今年は二つもお姉さんになったんだから、五つ、食べなさいね」
「んんぅ」葵は満足な苦笑で首を横に振る。「むいだよぉ」
「何いけるでしょう、五個っくらい簡単よ~う…、いっつもヨーグルトばっかり食べてるんだから」
「これはケーキ、そんなに食べたら太りますぅ」
「なぁに言ってんの、その歳で太りゃしないわ」
葵にとってこの時間がどれほどに幸せな物か、それは母である堀も充分に理解していた。堀にしてみても、この日は貴重すぎる一日である。母である愛情と権威をどうにか保てているのも、この日が毎年変わらずに訪れてくれるからなのだろう。堀もそれは理解していた。
しかし、三個目のめケーキを食べ終わった頃、葵は顔をしかめていた。堀にである。
「悪いね、葵……」
堀がしかめた顔で、猿のように火照った頬をぽりっと掻いた。
「一人で帰れる?」
葵は黙ったままで、ただその顔をめいっぱいにしかめる。
堀は更にしかめた困り顔で、慌てふためくように、んんと小さな唸り声を挙げていた。
「帰れるよ……。眼の前なんだから」
やっと口を開いた愛娘に、堀は溜息と真顔を浮かべた。そして、うんむと、威厳を保った頷きをみせる。
「困ったもんでね、お母さんの仕事は……」
「忙しいんでしょ、わかってる」
葵は席を立った。その眼はまだ堀を捉えている。堀は眉間に皺を寄せて、黙って葵に母性的な眼差しを返していた。
「絶対こうなると思ったよ」
「帰ったら…、ううん、今日は早く帰るから」
「ふーんわかった」
葵はテーブルの上にあるプレゼントの小包を手に取って、すぐに歩き始めた。
「じゃあねさよならぁ」
顔をしかめっぱなしの母を尻目に、葵はレストランの通路を歩く。途中カウンターの近くで店員に会釈をされたが、それは無視してしまった。
出入り口のドアの前で、葵はテーブル席を振り返る。
つい今まで座っていたそのテーブル席には、すでに片付けを始めている店員の姿しか無かった。いま葵がその座視を向けているテーブル席は、奥の窓際の、一番端にある。ちょうど、そこに堀が移り座っているところであった。
「なんなのよ…、あの女はぁ」
堀の真正面には、髪の長い若々しく美しい女性と、葵より五つくらい年が上に見える男の子が座っていた。堀の隣には、新内が座っている。
葵は重いドアを勢い良く開け放った。開ききったドアが――ガッコン――と横で音を立てていたが、葵は知らんふりでスロープを歩き始める。
開始一時間で早くも母を奪われてしまった無念が、腹の中でくるくると眼を回していた。このままでは帰れないと、何か作戦を練ろうと孝作を開始する。しかし、意外にも新鮮に吹きすさいだ風がとても気持ち良かったので、葵は、右手に持っていた紙包みを胸に抱きかかえた。
どうしてから、ガサリと音を立てた紙包みを、笑顔で抱きかかえていた。
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「いいんですか?」
「てぇやんでぃ、あんたらが私を呼んだんじゃないの」