新しい世界
「駄目じゃあないけどねぇ、やっぱり、母親としては、何があったとか、これからどうするだとか、そういう事を聞きたいもんよね。そういう時間が少しでも作れればいいんだけどね、何が嫌なのか、将来の話なんかをすると、急にいじけて部屋に籠もっちゃうだもん」
――こっちにおいで、と部屋に行けば、もう親子喧嘩が始まっちゃう――新内はそう言って、絢音に意見を預けた。
「はい。ジュン君、どんなストレスを抱えてるのかなぁ? ジュン君やジュン君の周りでは、どう?」
「みんな少なくとも親とか、兄弟とかとはもめてると思いますけど……。そうですね、ネットに暴言書き込んだり、ストレス発進でする人もいると思います」
堀が軽い欠伸(あくび)をした。
「リセット・プログラムで、今日ストレスが犯罪を、というお話がありましたけど…、そこでも言ったと思いますけど、僕は本当の所、そうは思わないんです」
「そう、そうね」絢音は堀に言う。
口を閉じたまま活き活きと眼を見開いているジュンを横に、絢音が堀にそれを説明した。
本日の『リセット・プログラム』講習会では、彼が絢音の意見と戦ったのだった。争点となったのは『犯罪意識の確率』と『犯罪意識の成立』。そして結びの争点となったのが『犯罪行動への発起点』であった。
「犯罪心理という物は鈴木先生のお話から、勉強させてもらったんですけど、僕が思うに、犯罪に踏み切る決断は、絶対にその人においての、問題だと思うんです。トラブルとかもそうですけど、元々理解の相違があったとか、…そういう事で、単純に腹が立って…、犯罪といってしまえば、それまでなんですけど、喧嘩ぁ、みたいな事に繋がっていくんじゃないかな、と思うんです」
ジュンの意見を新内が補足する。
「ジュン君は、少年犯罪という響きに疑問を感じているのね。少年犯罪ではなく、それは一般と同じ、犯罪だと、彼は今日の講習会で唯一の意見を唱(とな)えたんだ」
「立派だったの。ね?」
絢音がジュンに笑みをこぼす。
「向こうでは敵同士でしたけど」
ジュンも思わず笑みをこぼした。
レストランを出た後、堀は国道に悠々と車を走らせていた。
「少年犯罪ねぇ……。私も、そう思うんだけどなぁ……」
横眼でカーステレオの電光掲示板を確認しながら囁かれた言葉の正面では、ようやく記憶できた乃木坂46のメンバー達が、子供と大人の境界線の声を響かせて、真に迫った恋心を心地良いメロディにのせていた。
インターネットでの『リセット・プログラム』では、七氏というハンドル・ネームで知られている少年、安房ジュン。彼が『リセット・プログラム』に顔を出す切っ掛けとなったのが、当時まだ四歳であった妹との死別であった。その年に流行していたインフルエンザに感染してしまい、ウィルスに対して極めて抵抗力が劣っていたという事が、直接的な医師の診断結果であるとの事だった。
それから家庭での団欒(だんらん)の時間も減少していき、徐々に家庭での問題を主に取り扱っている『リセット・プログラム』に興味を持ったのだという。それから二年もの間、彼は『七氏』というハンドル・ネームで欠かさずチャットに参加していた。しかし、本名を明かして講習会に参加してきたのは、これが初の事らしい。
国道を越えて車が市街地に入り込んだ頃、実に有意義な時間だと食い入るように会話に没頭していた絢音の顔を思い出しながら、堀は乃木坂46の楽曲を、耳覚えでハミングしていた。
それは開け放った窓の風音に消えてしまいそうな、実に脆弱なでたらめであった。
8
安房ジュンと新内眞衣を乗せた鈴木絢音の車は、都会の喧騒を振り撒いた国道をひた走っている。堀未央奈と別れた車は、講習会場をすでに十分も通り越して、安房ジュンの自宅を目的としていた。
カーステレオには、乃木坂46の楽曲がリピートで流されていた。
「ついカッとなるのが本音だよねぁ、確かに、犯罪心理なんて物、犯罪を犯すは前からの犯罪者にしか当てはまらない」
後部座席から囁かれている新内の声は、助手席のジュンを通過して、運転席の絢音とキャッチボールされていた。
「みいんな悲しいんです、一番悲しんだ人が、過(あやま)ちを理解する前に、行動に至ってしまう。いいえ、理解して、悲しみに心を奪われてしまうんです」
――それを理解してあげられたら、犯罪という重い名前に支配される事も無いんだけどね。世の中には、孤独な犠牲者が沢山いる。そういう犯罪が、少年犯罪と呼ばれてしまうんだろうね――新内はそう結んだ。
一度音楽だけとなった車内は窓の外の闇を貰う。和やかな会話が数分間も続いていた為に、それはとても長い静寂に感じられた。
絢音はハンドルを握ったまま、短く時刻を確認する。腕時計のデジタル表記には、二十一時二十二分と映し出されていた。
国道を抜けた景色が、徐々に狭く入り組んだ路地へと変わっていった。
ジュンは先刻から口を噤(つぐ)んだままであった。その顔は窓に映る景色を眺めては、また正面のカーステレオに向けられている。ツーブロック・マッシュという整った髪型は、その精錬された車内空間には異質にも感じられた。
絢音は正面の路並みを確認したまま、ジュンにきく。
「時間は、大丈夫かな? ――…ん?」
ジュンの声が小さかったので、絢音はカーステレオの音楽を停止させた。
「ん?」
「あ、大丈夫です」
ジュンは縦に首を振った。
「大丈夫?」
「はい、まだ」
ゆっくりとした――まあ、――という切っ掛けから、新内が閉じていた口を開いた。
「今日の時間は、私の考え方も含めて、全ての改めとなる、重要な時間だった」
運転している絢音は前を向いて頷いていたが、ジュンが新内を振り返ろうとしていたので、新内は助手席のシートをぽんと触って、後部座席に顔を出したジュンに微笑んだ。
「今度、また話を聞かせてもらえるかな?」
ジュンは首を器用に、そのままの体勢で頷いてみせた。そして、また前に向き直す。
沈黙は流れずに、それは別の流れとなった。
――完全に自分資本って考え方をする親は、どうして親なんでしょうか――
軽い振動以外には、呼吸さえ聞こえない、そんな車内に響いたのは、安房ジュンの強い声であった。
絢音は反応している左の耳を、己でも意外といった心境で意識させていた。
「漫喫でネットするようになって、リセットを見つけてから、みんなが話し合っている内容に、感動したんです……」
絢音は眼前の景色に、七氏と最初に出逢った頃の会話を思い浮かべていた。
「子供が話し合っているのかと思ったら、それが大人だったんで、もっと驚きました。大人がこんな、真剣に僕らの事を考えているなんて、思っていなかったんです。
その頃、もう受験勉強とか、そういう事が…何かもう全部嫌になっちゃって、友達の家で勉強といって、よく漫喫でリセットのチャットに参加するようになったんです。絢音先生、憶えてますか?」
絢音はそのままで微笑んだ。
「うん、憶えてるよ」
新内は黙って耳を清まし、その辺だけ含み笑いを漏らしていた。
「僕と対等に話し合う人達が大人なんで、すごく、緊張とかしながら、楽しいというか……、何かハマっちゃって。