新しい世界
「それでピンときてねえ、坊主にきくと同時に捜査を続けていくと、なんでもその花は、坊主の両親が失踪した後に、近くの花屋から坊主が購入したもんだって解ったんですよ」
堀は深く頷く大将を見つめたまま、グラスをちびりとやった。
「それで下を掘ってみたら、てわけか……」
新内は堀に最後の合図を求める。
堀ははあと溜息をつき、ちょこんと頷いた。
「ありゃ~、随分と陰惨な事件だったんだねぇ。あれでしょう、ほら、それってよく刑事ドラマなんかでいう、なんてったっけ」
大将は同情の顔から、すぐに持ち前の顔に変わる。ちゃかちゃかと小刻みに指先が動いていた。
「ああそう、ほえあ、猟奇殺人!」
派手に明るく言われたその言葉に、新内と堀は共に――はは――と引き目に苦笑した。
〈自惚れビーチ〉の赤提灯を背に受け、泥酔状態に近い堀を、新内は何とか歩かせる。
この日、二人が合同してからすでに八時間が経過していた。――夜道に灯っている光は赤提灯以外では街灯ぐらいであるが、すでに夜も明けようとしていた。
「眞衣ぃ~!」
堀は顔を俯けたままで、叫びに近い声で話す。腕はしっかりと新内にの肩にかけられていた。
「はいはい、何よ」
新内は堀の体重を受け止めながら、しっかりと脚元を確認しながら歩く。
「あんったは……、い~い奴だ!」
そう、そうりゃどうも、と新内が言ったところで、二人の後ろからガラガラと引き戸を開く音がした。
振り返ると、車のキーをちゃらりちゃらりと握り締めながらこちらに走ってくる、大将の姿がある。
「おお、どした、大将?」
新内は、電信柱に背を下ろそうとする堀を引き上げながら言った。
「これから買い物?」
「やっぱり送ってってあげるよう」
大将は、渋い顔でへえへえとにやけている堀を指差した。
「こんなんで返せないよ、車、ね? すぐそこにあるから」
「いいってぇ、すぐそこでいつもタクシー拾ってんだから」
「タクシーなんか通りゃしないってもう」
大将は痛々しい眼で堀を観ながら言う。
「大丈夫、大将は後片付けで忙しいんだから、私達の道楽にこれ以上付き合う必要はないよ」
新内はなんとか、電信柱に背をもたれようとする堀を強引に持ち上げる。
「この子も、いつもこんなんだし、決まって車内で吐く事になるんだから」
大将は何も言わなかったが、その顔は――そりゃ困る――と物語っている。
「大丈夫、大将はまた来週私達の愚痴に付き合ってくれれば、それで充分だよ」
心配そうに見守る大将に、新内は――それじゃあ、おやすみね――と微笑んで別れた。
なんとか駅前まで辿り着いて拾ったタクシーで自宅には帰ったものの、堀は早々に玄関で眠り込んでしまった。すでに体力も限界に近かった新内は、堀を強引に玄関の中にいれ、そのドアを閉める。後はタオルケットを上からばさりと投げ、そのまま一人シャワーを浴びて床(とこ)に就(つ)いた。
翌朝になって玄関から物凄い怒鳴り声が響いた事は、言うまでも無い。
2
「これはじゃあ、何なんですか? ここに三割引きって書いてあったのは」
「ええ、ですからそれはこちらの手違いでして……」
店員は困った顔をする。いや、かなり前からこの顔をキープしていた。
「もうバーゲンセールは午前中に終わってしまったものですから……」
「ええ、ですけど、こちらにちゃんとシールが貼ってありました」
「あぁ……、ですから、それは」
「三割引きなんでしょう?」
鈴木絢音は午後の用事までの時間を通り縋った電気屋で埋めていた。
彼女は消極的に見える反面、知能指数的に高圧的なもう反面を持つ、謎めいたこういう女である。
「嘘をついたわけではないんでしょう?」
絢音はくだを巻く。わかっていて、巻くのである。
「ちゃあんとつい何時間前までは割り引いて売っていたんですよねえ?」
店員の若い青年は泣きそうであった。――それを見かねた年配の上司のような服装をした男性が――はい、なんでしょうか?――と愛嬌(あいきょう)を振り撒きながら鈴木絢音の前に現れた。
絢音はくだを巻く。
「三割引きって書いてあったのに、私には割引しないって、この人言うんですよ?」
レモンイエローの店名が入ったジャンパーを着ている年配の男は、早速――はあ、はあ、――と感じの良い納得をみせていた。
「私、もうこの扇風機を買おうと決めたんです。もちろん三割引きのシールを見て」
絢音はにこりと男に微笑んだ。
「納得のいかない口論で、もう待ち合わせに時間には間に合いません」
ジャンパーの男は――ええ、はい、申し訳ありません――と丁寧に頭を下げ、隣でもじもじと立ち尽くしていた店員の青年に――あちらのお客さんを担当して――と素早く指示を出していた。
「では、はい…、この商品はご紹介通り、三割引きとさせて頂きます」
ジャンパーの男は深く頭を下げてそう言った。
困ったのは絢音である。
「あら……、そうなの?」と、言ってみる。
「ええ、それはもう、こちらの手違いですんで」
男の対応は腰が低く、接客の手本のようであった。
人差し指をあごにあてがって、先を考える。すでに自宅には扇風機がある。小型の物まであった。
「そう、それで、これは幾らになるの?」
絢音は腕時計を確認しながら淡々ときいた。
「ええ、ん~……これはぁ…、二万円ですので、一万と、四千円になります」
万と千を分けた丁寧な説明にどきりと胸が熱くなった。今現在、絢音の財布に収まっているのが、確かそのぐらいである。
「ここから、更に値切るシステムは……」
「ええ、ございません」輝かしい笑顔が即答する。
絢音も笑顔を作った。
「では、取り置きをしてもらえますか?」
絢音はさっぱりと清々しく言った。
「あ…、そうか…、いやあの、こちらの商品は、全て取り置きはしてないんですよ」
申し訳なさそうに囁かれた男の言葉に、絢音は露骨に困った顔をした。
「それは困るなぁ……」腕時計を確認する。「もう待ち合わせに向かわないと、大変な思いをするわ」
「ええ、でしたら、今すぐに用意しますので」
「いいえ、もう時間はありません」
絢音はきっぱりと微笑む。そして忙しそうに腕時計をもう一度確認した。
「あら嫌だ、もうこんな時間……」
「では、どう致しましょう」
笑顔の剝(は)がれてきた店員は、ゆっくりと首を傾げて絢音を見ていた。
「残念ですけど、また今度にします」
申し訳ありません――と下げられた頭を確認する事無く、絢音は――ああ残念、残念だわぁ――と胡散臭い独り言を呟きながらその場を立ち去った。
時刻はちょうど、目的地に向かって歩き出すにはぴったりの時頃に変わっていた。
街灯に明かりが灯った。という事は、時刻が夕刻の七時になったという事である。――絢音は左腕に提げている鞄からアイフォンを取り出した。駅前のバス停近くで一度立ち止まり、イヤホンを耳に装着する。再生を押した後は、また颯爽(さっそう)と歩きだした。