新しい世界
「法律を守る。こりゃあ国民に与えられた義務です。義務教育なんてのはその一角にすぎませんよ。法律にも色々ありましてねぇ、警察沙汰になる事や、子供の教育に関わった部分なんざいっちばん大事なんだ。これを守らないで、その後を考えたんじゃあ、これまたどうにもこうにも、止 ま ら な い ですよねぇ?」
外れたメロディにのせた山本リンダは、ぴりりと渇きそうだった会場の雰囲気を打ち砕いた。講師は――なるほど、ありがとうございました――と落ち着き、新内はにやりと閉まらない顔を堀に向けた。
「なんだかなぁ?」
堀は期待外れと言った顔でししと笑った。
その時――、会場の全員が突然に開かれた後ろ扉を振り返った。
「やっと来たってか……」
「あー、随分遅かったねぇ」
ぺこりと軽く会釈をしてから、講師が弱く微笑んでホワイトボードの前を片手で示しながら言う。
「ようやく本物の講師が到着されました」
ゆっくりと閉められた後ろ扉を凝視する会場からは、知った声も聞こえている。
「務まらない代役を買わせて頂きました。さ、代わりましょう」
午後二十時五十分、予定よりも五十分遅れで鈴木絢音の登場である。
4
それでは、少しまだ早いのですが、一度小休憩を取って頭をすっきりとさあせましょう。――到着早々にホワイトボードの前で囁かれたその声に、いま会場に残っている人数は半数に減っていた。残りの参加者達は廊下通路に設けられた喫煙場所で煙草を吸ったり、自動販売機の前で立ち話をしている。
新内、堀、絢音の三人は自動販売機の前で立ち話をしていた。
「違うんです、本当にひょんな事からだったんです。それで、実家が大騒動になりかけて……」
絢音は、はあと溜息雑じりに顔を片手で覆った。」
「新内さんを実家に連れて来いと、母が……」
「私は旦那持ちだし、子持ちだしねぇ……。というかぁ、女、だしなー。あんたも一応女子力だけは高い女刑事だもんねえ?」
新内は堀にふんと鼻を鳴らした。
堀は煙草をぷかりと味わいながら――何を、寝ぼけた事言ってんの――と失笑した。
「別に、新内さんと固有名詞では無いのですけど、私が約束していたのは新内さんだったので、このままでは迷惑をかけてしまうと思って……」
絢音はしおしおと口を結ぶ。
「それで、事は万事解決したのかぃ?」
新内の言葉に、絢音は明るく――はい――と頷いた。
「にしても、鈴木さん不在の席は正直僕にはきつかったです」
幸薄く苦笑してみせるこの男の名前は、滝比呂(たきひろ)という。先ほどまで講師を務めていたのがこの男であった。後ろで一つに縛ってある長い髪に、瘦せこけた顔が印象の出版会社に勤める三十六歳である。
「堀さんの熱いお言葉が無ければ、延々と僕の詭弁(きべん)が続いていたでしょうし、聞いている大半の皆さんも僕では無くて鈴木さんのお話を期待してここに来ているわけですから、僕があの場に立ち続ける事は」
「滝さんありがとう」
先ほどの講師ぶりを垣間見せるかのような走り出した滝の言葉を、絢音がずばりと制した。
「あ、いいえ……」
滝はぽれいぽりと赤らんで頬を指で搔いた。
「ところで、お前さんはここでいっつも何を話してるわけ? 二週間に一度もここに通っているんでしょう?」
ぷかりと渋い顔で煙を吐いた堀に、きっ――と細く鋭い視線で絢音が――ここで吸わないで下さいます? 灰皿が無いでしょう?――と言った。
堀はにんまりと片頬を持ち上げて、内ポケットから携帯用灰皿を取り出した。
「二週間に一度、ここで少年犯罪について話し合ってるんだよね」
新内が堀の携帯用灰皿を見ながら言った。
「はい」
「でもそれって、ネットの、……ほれ、あのなんちゃらとかいうやつでもやってるんでしょう?」堀が言った。
「チャット、ですね」滝がでしゃばらずに補足する。
「大勢の人で大いに話し合う事はインターネットでは難しいんです」
絢音は澄ました口調で淡々と言う。
「中には堀刑事みたいに真意を隠した会話ばかりをする人だっていますから」
堀の眼がつり上がったが、運良くちょうど煙草を吸い込んでいる作業中だったので、絢音はその難を逃れた。
「え?」
先ほどまで滅多に表情を替えなかった滝が、めいっぱいに持ち上げた眉で堀を見た。
「刑事さんなんですか?」
堀は携帯用灰皿を煙草を挟んでいる方の手に持ち換え、空いた方の手で、内ポケットから立体的に紋章の浮き上がった警察手帳をちらりと覗かせた。
「はっはぁ~……、それでか、いやわかりましたよ……」
滝はそう言って苦笑した。
「いやまいった。堀さんも人が悪いですねぇ、」
堀は灰皿に煙草を揉み消しながら、ははと片眼を笑わせて滝を一瞥した。
「親父くさ、何いまのしぐさ」
新内は顔を驚かせて堀を馬鹿にする。
「うっさい」
堀はそう言って鼻をすすった。
「それでは、そろそろ会場に戻りますか」
絢音は販売機から先ほど買っておいたジュースを取り出す。
「今日は手強いお人がいらっしゃいますから、きっと水分が貴重になりますね」
「ふん。お手並み拝見」
壁があるのか無いのか何やらわからぬ二人の様子に、新内は――ははは――と笑みを漏らしていた。
「R指定のブルーレイやDVD、ネットでの刺激的な動画や画像の流出などから、どうやって未成年を守るのかというお話が滝さんの方からありましたので、その続きから始めたいと思います」
新内と堀が先ほどの指定席についた時点で、会場は元の時間を開始した。――今は滝の代わりに絢音がホワイトボードの前に立っている。
「では早速ですが堀さん」
絢音は唐突に後部席の堀を名指した。
「法律を守る、というお話をもう一度少年犯罪に結びつけてご教授願えますかしら」
皆が堀を振り返る。堀は新内に――ほうら来た――と片眼を瞑って呟いた。
「法律を守るのが国民の義務だとそうおっしゃっていたそうですが、では具体的には、それを少年犯罪においてどうお考えでしょうか?」
絢音は署内で堀と接する時の顔つきになっている。いつもの講師役の顔つきではなかった。
「法律を守るというのは、もちろんそれが正論だと思いますが、実際にそういう世の中で少年犯罪が起こっています。これには対策、具体例が必要になってくると思うのですが……。堀さんのお考えをぜひお聞かせ願えますか」
堀はふうと深い息を鼻から吹き出し、机の上で指を組んだ。
「法律を守るという認識が弱い、それが欠けているから犯罪が起こるんだけどねぇ」
堀は眉を上げて絢音を見据えた。
「犯罪と一口に言っても、先生がおっしゃるように犯罪は数限りなくあります。どのような少年犯罪に対しての、具体策を申せばよろしいでしょう?」
「すみません、言い忘れていました」
絢音は軽くあごを引き、瞬(まばた)きを見せてから、堀を見て言う。
「この集会では、少年少女が起こす『殺人』について話し合っています」
新内はあごに皺(しわ)を作って鼻をさすった。
「殺人なら尚更よ」
殺人と聞いて、堀の口調が急に自に戻る。