新しい世界
「それを回避できるのは『法律を守る』という強い意識、要は根っこに染み付いた常識よ、それ以外にどんな対処法がある? ありますか?」
参加者の中年の男性から――あるでしょう――という声が挙がった。
「まあどんな対処策なのかはききませんよ、そうです、あるにはありますよ。しかしですねぇ、現場に居合わせていない者が、どうやってそれを回避すればいいんですか」
堀は参加者の口調を勉強したのか、言葉遣いを多少改めた。
「子供だって腹が減りゃあ飯を食うって知ってますよ、殺人に対する認識だってそれと変わり無いでしょう? やっちゃいけないとwくぁからないはずがない。それでも事件は起こるんだから、個人がしっかりする他無い。それ以外解決策は無いに等しいでしょうね」
堀はそう言って口を閉じた。
「個人、と申されたのは、もちろん未成年の事ですね?」絢音がきく。
堀は当たり前でしょう、と言いそうになって、――その通りです先生――と素早く言い換えた。
「では、未成年には保護者がいます。堀さんのおっしゃった通りに未成年達に法律を強く意識させるには、保護者の協力が第一となります。それに、輪をかけて必要な事がありますね。何かおわかりになりますか?」
新内は無言で考え始める。堀はだらしなく欠伸(あくび)を漏らしていた。
「それは、教育です。教育の無い国には犯罪が蔓延(はびこ)り、教育の行き届いた国では、犯罪は激減されます。これは列記としたデータであり、世界の事実です。日本は少年犯罪が多い国ではありませんが、それでも未成年が犯す殺人事件は存在します。それを更に削減、もしくは排除するには、義務教育で培われる教養の中に、法律を守る、人を殺してはいけない、という観念を強烈に強く焼き付ける事が必要となるでしょう。それができたならば、どうでしょうか?」
「どうだろうね?」
新内は笑みをこぼして、堀の顔を一瞥した。
堀は黙ったままで、机の上に組んだ指を見下ろしていた。
「保護者が子供達に教えるべき、伝えるべきだという意見は最もだと思います」
絢音の言葉に、堀は――私ゃそんな事言ってないぞ――と小声で漏らした。
「法律を重んじる事が一番だとおっしゃっていた、先ほどの堀さんのお話の中に、義務教育はほんの一角だとおっしゃられた意見がありましたが、僕もそれはそうだと思います」
左列の最前列に座っている滝が、間を見てしゃべり出した。
「最近では登校拒否の児童が増えて義務教育という言葉が多く用いられているようですが、実はもっと私達大人が見つめていかなければならない事が、多く存在しているのではないでしょうか?」
絢音が――それは、例えば何でしょう?――ときいた。
「例えば、殺人や強盗といった、すでに我々がやってはいけないと常識に受け取っている物事の認識です。はたして、それを今の子供達はちゃんと理解しているのでしょうか? 私達大人もそれを、高をくくって子供達に伝えそびれているのではないか、と、そう思います」
滝は更に熱弁を続ける。
「僕もそうなのですが、気を抜くと登校拒否がちになる息子に、学校へ行きなさい、とは言っても、人を殺しては駄目だ、とは言いません。はたしてそれで子供達は一番大切なルールを深く理解できているのでしょうか?」
「いい意見ね」
新内が顔を近づけて堀に呟いた。
堀は黙ったままで発言者の滝を見つめている。
「そんな中、社会では様々な形で子供達にバイオレンスを与えます。ある漫画では簡単に人を殺す、映画でも妙に現実感のあるストーリーで巧みにバイオレンスという要素を子供達に伝えます。まだ幼い頭脳は、それをどのように受け止めているのでしょうか?」
滝は、後ろを振り返った。
「本当に対処策は無いのでしょうか?」
新内は、明らかに堀を意識して発言された滝のその意見に、じっと結んでいた口を開いた。
「影響力のある物を、影響を受けやすい子供達が強く吸収していくのは避けられない事です。皆が皆そうというわけでは無いでしょうが、まあ、子供ですから、バイオレンス性の強い何かを吸収すれば、よくない方向に向かってしまう事もあるでしょう」
新内は、皆に注目されるのを、ぽりぽりと頭を掻く事で紛らわす。
「かと言って、それはどうする事もできません。子供の強い感性には時に届かない声というものもあるのでしょう。――うちに今小学五年生になった娘が一人いるのですが、二年ほど前に、少しやっかいな趣味にハマってしまったんですね」
――なんですか?――とすぐ近くにいた婦人がきいた。
「ええ、黒魔術、とかいうあれなんですが、皆さんご存知でしょうか?」
知っていると答えた会場に、新内はうんと頷いて先を続ける。
「あれは……、ちょっと専門的になると、何かの儀式なんかに、『生贄(いけにえ)』という厄介な物が必要になるんです」
新内はぽりぽりと頭を掻く。
「時に蝶(ちょう)や蛙(かえる)といった昆虫、小動物から、なんでも犬や猫まで、その儀式によって命を奪う物がころころ変わってくるんですけどね、ようは生贄といって遊びの延長で殺すんです」
会場の表情が、新内の話に歪んだ。
「なんとか手遅れにならない前に娘にはやめさせたんですけどね、そんな物が世間にはごろごろしてるんですよ。娘の時も、漫画本や映画が切っ掛けでした。ちょっと立ち寄った本屋で、ちょっとネットで検索したら、もうそこに、自殺の仕方が詳細に書かれた物や、そういった子供にとって悪影響の高い物まで、何でも簡単に手に入る世の中なんですよ」
黙って机に視線を落としていた堀がゆっくりと新内を見上げると、
「そういった大人向けの社会から子供達を守る、というか、のびのびと教育していくには、やはり我々が一つ一つ丁寧に、根気強く教えていくしかないんでしょうね。それが子供個人に、良い事と悪い事を判別、区別する強い認識、常識を与えます」
と結論した。
すると、すぐに堀が――法律っちゅう当然の事を子供自身が理解できないでどうする?――と矢継ぎ早に口を開いた。
「殺人なんてのは大人でも躊躇して当たり前の事、いやいや、言葉が悪いけどね、つまりとどまって当たり前の事だと言いたいんですわ」
堀は長い綺麗な黒髪をとんと触った。
「それを子供が犯すってのはどうにも理解し難い、いただけない。義務教育だから学校に行くなんて言ってないで、そういう至極当然の事を学ばせた方がいいわ。今のガキ……、今の子供達はちょとそういった常識が欠け過ぎて困る。変なところだけ大人ぶりやがって、子供はそういうんじゃ駄目なのよ」
ふんぞり返った堀に、――途中言葉遣いひどかったな、もう無理しなさんな――と新内が笑った。
ふと眼の前から僅かに光が去ったので、新内は天井を見上げてみた。
そこでは短く消えかかっていた先ほどの蛍光灯が、点いたり消えたりを繰り返していた。
「堀さんと新内さんの言う通りですね。子供達の犯罪を未然に防げる手段があるとすれば、それは保護者によるものだと思います」
絢音は久しく声を出す。いつの間にかその表情は、二週間に一度の講師役の顔つきに戻っていた。