誰にだってあるもの
飛鳥は頬の涙を荒くぬぐいとって、震える声を振り絞った。
「わかった……。双葉ちゃん、絶対、負けないでね!」
坂根双葉は鏡越しの飛鳥に、笑みを浮かべた。
「うん、わかった。ありがと、飛鳥ちゃん」
次の瞬間、飛鳥は耐えられずに、走るようにして、二人を置いて美容室を出て行った。
秋月奏は、真面目な顔で鏡越しの坂根双葉を見つめる。
「双葉、どんと手術受けて、また一緒に笑おうや……」
坂根双葉は笑みに涙を浮かべた。
「うん、秋づき君、さ~んきゅ!」
「ねごらねえの、そこは。またな、双葉。待ってるぜ」
「バイバイ。飛鳥ちゃんに、当たって砕けろよな、秋月君も!」
秋月奏は、口元に惨(みじ)めな笑みを浮かべた。
「……ふん、じゃあな」
「バイバイ、えへへ」
泣き出したその顔を、見ぬように気づかぬフリをして。秋月奏は、その美容室から出て行った。
週末、齋藤飛鳥と秋月奏は〈アンダー・コンストラクション〉のショップにある制作室にて、上司である東桜兼五郎を交えて会議をした。齋藤飛鳥のオリジナル新ブランド〈飛鳥〉のTシャツが、上から量産のゴーサインが下りた事も飛鳥はその時に二人に告げた。
そして、来週末に、日本へと帰国する事も――。
最初、ここニューヨークに着いた日は、こしまり雪が街路樹や歩道脇に降り積もっていて、白いぼたん雪が降っていた。それは徐々に水分を含み、雨に変わって、やがて夜が訪れると、粉雪に変わっていた。
アメリカ大陸に上陸して約一週間で、マンハッタン支店へと配属されてきた優秀な私のチームメイト。秋月奏と、坂根双葉。心を焦がすようなディスカッションを幾夜も幾夜も経て、私のブランドの初期デザインは完成した。
夢中で奮闘できた。無駄な事も余計な事も、大事な事も大切なものも、全て抱えて奮闘した。がんばれた。秋月奏と坂根双葉が、いつも隣にいてくれたからだ。
東桜兼五郎さん。マンハッタン支店の直属の上司にして、驚いたことに〈(株)アンダー・コンストラクション〉の副社長だという。
人を心の眼で見る素敵な人だ。
ルームメイトの筒井あやめ。懐くと可愛い女の子で、あやめちゃんは、今後、〈アンダー・コンストラクション〉をしょって立つ事が間違いないだろう、天才児。
みんなとの出会いが、今の私を形成してくれている……。
1人では辿り着けなかった境地へと、向かおうとしている。
マディソンスクエアパークで出会った占い師のお婆さんが言っていた『もう一度運命の人と出会う』は、少し気になったけれど、お婆さんごめんね。今は仕事に没頭していたいの。
おそらく、これからの、この先も、素敵な出逢いたちが私と〈飛鳥〉を待っている。
小鳥はやがて成長して、巣立つ日が来る――。
鳥は、空を飛ぶんだ……。
気がつけば、冬はすっかりと夏へと変わっていた。
7
ジョンF.ケネディ国際空港の第七ターミナルの空港ラウンジで、東桜兼五郎と筒井あやめに見送られ、アメリアでは最後となる別れの会話をしていた齋藤飛鳥は、突然として現れた秋月奏に、きょとん、とした真顔を向けていた。
秋月奏は、激しく切れた息を落ち着けようと、膝に手をついて呼吸を整えている。まだ一言も発していなかった。
弱視の東桜兼五郎は、微笑んで、事の次第を理解した。
「筒井さん、秋月君は、折りいった話があるんだと思うだがね……。私たちは、少し場所を変えていようか」
「はい」筒井あやめは、素直に微笑んだ。「飛鳥さん、がんば!」
「手を持ってくれるかな」
「はい」
白線をついた東桜兼五郎と、彼を誘導する筒井あやめは、空港ラウンジの他の場所へと向かって歩き出していた。
齋藤飛鳥は、鼻腔から溜息を吐いた。
息を整えながら、秋月奏は、真剣な顔つきで、飛鳥を見つめる。
「ちゃんとした答え、聞いてねえからよ……」
飛鳥は、真顔で秋月奏を見つめてから、その口をゆっくりと開く。
「本当に、気づいてないの?」
「あ?」秋月奏は、表情を真剣に整える。「何に? んん、何が?」
「本当に気づいてないんだね……」
秋月奏は、険しい顔で飛鳥を見つめる。
飛鳥は、ゆっくりと瞬きをした。
「本当に大切なのは……、いつも1番近くにいる人なんだよ。あんたにとって、それは私なんかじゃない。もう、わかるでしょう?」
「………」
秋月奏は、大きく息を吸った。
口から、静かに吐き出した。
飛鳥の声が言っている。
「自分でも、本当はわかってるんでしょう? わかるはず」
「俺は、」
飛鳥は眩しそうな視線を浮かべながら、強く発声する。
「それに、私もいるの。ちゃんといる……。生涯を共にする、今でも大切な人が……」
秋月奏は、飛鳥に近づこうと一歩前へ出る。
「でもその人はもう」
「まだまだ始まったばかりよ、100億年の恋なんだから……。序盤で、あんたに、……あんたがいくら魅力的だからって、乗り換えするきゃねえだろ」
秋月奏は、悲しそうな顔で、苦笑した。
「そっか……。見る眼は、あるんだな。少し、安心したぜ……」
「言ってろ、ばか。このばか」
飛鳥はすっと、真顔になって、秋月奏の後ろ側を指差した。
秋月奏は振り返ってみたが、別に誰もいないし、これといって何もなかった。
「………あ?」
「ここじゃないでしょ……。あんたが、今すぐにでも行かなきゃならない場所は」
「……飛鳥」
「行きなさい!」
秋月奏は、キャップ帽をぎゅ、とかぶり直して、飛鳥へと浮かべた笑みをみせた。
「お前って、変な奴な……。会った事ねえ感じだわ」
飛鳥はふん、と鼻を鳴らした。
「早く、行って」
「俺もいつか、日本に行くよ……。そしたら……」
飛鳥は眉根をひねらせる。
「そしたらぁ?」
「そしたら……」
秋月奏は、くしゃ、と笑った。
「またディカッションしようぜ! じゃあな、元気でな、飛鳥ちゃん」
「ふい~」
秋月奏は、スタートダッシュをするように、空港ラウンジを駆け抜けて行く……。
飛鳥は、窓の外を眺めている、東桜兼五郎と筒井あやめのもとへと歩いた。
挨拶代わりに、東桜兼五郎の腕に、そっと触れた。
筒井あやめが笑顔で振り返る。
「あ、飛鳥さん、もうこく、じゃなくて……、お別れはいいんですか?」
「うん」飛鳥は頷いた。
「ああ、齋藤さん」東桜兼五郎は飛鳥を振り返って、白い髭を笑わせた。「私は眼が不自由な分、耳が良くてねえ………。君は、誰にも、その心に触れさせはしないんだね」
「そ」
飛鳥は「そ」の表情で止まった。
東桜兼五郎は、喉を鳴らして、頷いた。
「誰も君を抱き寄せられない……。強く、そう求めたとしてもね」
「うん」
飛鳥は、自慢げに薄く微笑んだ。
「なぜですか」
飛鳥は、そう訊ねた東桜兼五郎を強い視線で、見つめた。
「私を、守っている人がいるから」
「………ほう」
「今も、その人のものなの、私は。その人だけのもの」
「けれど、その魔法使いは、君を置き去りにしたのだろう……」
飛鳥は、短く、首を横に振った。
「好きなの……ずっと好き。今でも、夢にだって見る。だから私のその人への好きは、いつも真新しいんです……」
そうだよね、慎弥……。