確かなもの
確かなもの
作タンポポ
０
眼忙(めまぐる)しい日々の連続の中にも、何か手応えのような何かが欲しい。それが何なのかはまだわからないけれど、私には今以上に、まだやる事が残されているという事なのだろう。
明日は、ついに２０２３年度最も盛大に開かれるランウェイ・モデル・ショー【Tokyo・Super・Collection(東京・スーパー・コレクション)】だった。齋藤飛鳥のブランド〈飛鳥〉そして齋藤飛鳥自身のデザイナーとしての記念すべくデビューの日でもある。
飛鳥はアップルウォッチに視線を落とす。もう深夜と呼ばれる時間帯に入っていた。爽やかな夏の夜風が、枝葉をゆらして何処からか潮の香りを運んできているかのような気がした。
夜を照らす街灯の下の洒落たベンチに一人座り、カスタマイズされたスターバックスのアイス・コーヒーを飲んでいた。
この時間帯、人影はもうほとんど無いに等しい。飛鳥はたった今、ようやく多忙なスケジュールを片付け、森林公園へと足を運んだばかりである。すでに先にいた人影はぽつぽつと、二、三人だけのものであった。
飛鳥は、厚紙性のストローを咥えながら、ふとそちらの光景を見つめる。
「食わないのか……。お前、死んでるんじゃないよな……」
数メートル先の闇の中で、その場にしゃがみ込んで、おそらくは野良の子猫に餌をやっている男がいる。
その低い声は、ぎりぎりで飛鳥の耳にまで届いていた。
「これ、嫌いなのか？ ……おい、猫……。食っていいんだ、お前に買ってきたんだから」
齋藤飛鳥は深い溜息をついて、ベンチから立ち上がった。
外灯の灯りから抜けるようにして、暗闇の中に入り込んでいく。
短く歩きながら、自分は何をしているのだろうかと、また溜息がでそうになった。
飛鳥は男と野良の子猫の前で立ち止まり、深い溜息をついた。
男が、不思議そうに、ふてぶてしい顔を飛鳥へと見上げさせた。
「あんたねえ……、どう見ても、死にかけてるでしょ？」飛鳥はじろりと男を見下ろして言った。
「え……。昼寝してるんじゃ……」
男は野良の子猫を見つめる。子猫は地面に横たわっていて、骨が毛皮に浮き出そうなほどにやせ細っており、確かに、呼吸をするのもやっとの状態にも見えた。
「今は夜だし、飢えて痩せこけてるじゃない。もう自分じゃ食べる事さえできないの……、なんで、すぐわからないの？」
「そう、か……。じゃあ、どうすれば」男は飛鳥の事を見上げる。
「動物病院へ行って」飛鳥はその顔から表情を無くして言った。「急いで」
「え？」
「この子を死なせたいの？」飛鳥は眉間を険しくさせた。
「……。いや、そう、か」男は飛鳥から、子猫へと視線を換えて、頷いた。「わかった」
男は、優しい所作で子猫を胸に抱き上げ、すくっと立ち上がった。飛鳥はアイアス・コーヒーのストローを咥(くわ)えて、男を見上げる。身長差は実に２０センチ以上あった。
男は、改めて飛鳥の方を見た。
「あんたも、ついてきて」男は不愛想にぼそぼそと言った。
「はあ？」飛鳥は大袈裟(おおげさ)に眉間(みけん)を顰(ひそ)める。「なんっで、私が……」
「この子を、死なせたくないんでしょ？」男は無表情で言った。
「だから、あんたが連れて行きなさいよ、私はこれでもやっと一息ついてるんだから……」
飛鳥はそう言ってから、視線を離さない男から、ぷいっと顔を背けて、肘をかかえて腕を組んだ。
「俺はいま金、持ってないし。スマホもない。タクシーにも乗れないし、動物病院もどこに在るかわからない」
「はあ～？」飛鳥は激しく顔をしかめる
「俺とあんたで連れて行こう。この子には、まだ生きるチャンスがある」男は、抱いている子猫を見つめて囁(ささや)いた。
「……、なんっで、こうなるかな～……」
「タクシー呼んで。ほら、早く」
飛鳥はぶつぶつと小言を呟(つぶや)きながら、バッグからスマートフォンを取り出した。すぐに付近の動物病院を検索してみる。
男は、愚痴を吐き捨てながら素早く作業する飛鳥を見て、その不愛想な顔を笑わせた。
「俺……。柚飼一哉(ゆずかいいちや)……」
「んん、ああ、齋藤です。あもしもしぃ？ あの……、死にそうな子猫がいるんですけど、……、はい。……ええ、あの、飢えていて、もう自分じゃ、食べられないみたいで……、今の時間……」
柚飼一哉は齋藤飛鳥の事をじっと見つめる――。小さな声で、柚飼一哉の胸から、子猫が「みゃぁ」と一つ鳴いた……。
「うん、生きたいよな……」柚飼一哉は笑わずに微笑んだ。
「はい、じゃあ。今からそちらに伺いますので……、はい、すぐに向かえます。深夜に、御迷惑おかけします、ありがとうございます」
齋藤飛鳥は、怒った顔でスマートフォンをバッグにしまった。
深夜の夜風はとても生暖かで、どこか湿気を孕(はら)んでいる。猛暑は最近になって顔を引っ込めたのだが、気温はまだ高い。夏はまだ終わっていなかった。
柚飼一哉は、飛鳥に微笑んだ。
「タクシーは？」
「すぐ来る」
「そう。ありがとうだって……」柚飼一哉は抱いている子猫を、あごを引いて、至近距離で見つめた。「ありがとうだってさ」
「はい？」飛鳥は僅かに耳を傾け、眼を細める。
「こいつがさ……」柚飼一哉は飛鳥に微笑んだ。
「……ふん」飛鳥はそっぷを向く。
「俺からも、ありがとう。命の恩人だな、あんた」
「齋藤ですけど……」飛鳥は、上目遣いで、つまらなそうに言った。
「下の、名前は？」無表情がきく。
「……。飛鳥」
「ありがとう、飛鳥」柚飼一哉は、よく響く低い声で言った。
「ふんっ、呼び捨てかよ……。あんたいくつよ？」
「二十五」
「誕生日は？」
「十二月」
「一個上か……」飛鳥は視線を泳がせて、腕を組んだ。
「ふう～ん、意外に一つだけか、年下なのは」柚飼一哉はコンクリートで固まっていそうな、変わらない表情で言った。「一個下に見えない」
「あ、何その言い方っ」
柚飼一哉はそう言って、視界に入った方角に振り返ると、森林公園の入り口付近に停車しようとしているタクシーに向かって、前置きも無く、躊躇(ちゅうちょ)なくすたすたと歩き始めた。
「ああ、待ちなさいよ！ お金、持ってないんでしょう？」飛鳥は慌てて歩き始める。
「ああ持ってない」柚飼一哉は振り返らずに背中で答える。
「じゃあ私がいなくちゃ乗れないじゃない」飛鳥は急ぎ脚で言う。柚飼一哉は歩くのが速かった。「ちょとっ、待ちなさいよっ」
「早くこいつ、連れていきたいんだ」
「ああ、そっか……」
「はっは、真面目だな、飛鳥ちゃん」
柚飼一哉は後ろを振り返って、薄い色の笑みを浮かべた。大きな風で、黒く長い前髪がさらさらと靡いていた。
吹き込んだ一陣の大きな風に、飛鳥はふいに顔を背けて、その長い黒髪を耳の後ろで押さえた。
「はあ～！ 馬鹿にしてんの？」
「いいや、どっちかというと、尊敬してる」柚飼一哉は、また前を向いて歩き始める。
「うん、わかりゃいい」飛鳥は軽い調子で1つ頷いて、また、その後ろ背中を追うように歩き始めた。
作タンポポ
０
眼忙(めまぐる)しい日々の連続の中にも、何か手応えのような何かが欲しい。それが何なのかはまだわからないけれど、私には今以上に、まだやる事が残されているという事なのだろう。
明日は、ついに２０２３年度最も盛大に開かれるランウェイ・モデル・ショー【Tokyo・Super・Collection(東京・スーパー・コレクション)】だった。齋藤飛鳥のブランド〈飛鳥〉そして齋藤飛鳥自身のデザイナーとしての記念すべくデビューの日でもある。
飛鳥はアップルウォッチに視線を落とす。もう深夜と呼ばれる時間帯に入っていた。爽やかな夏の夜風が、枝葉をゆらして何処からか潮の香りを運んできているかのような気がした。
夜を照らす街灯の下の洒落たベンチに一人座り、カスタマイズされたスターバックスのアイス・コーヒーを飲んでいた。
この時間帯、人影はもうほとんど無いに等しい。飛鳥はたった今、ようやく多忙なスケジュールを片付け、森林公園へと足を運んだばかりである。すでに先にいた人影はぽつぽつと、二、三人だけのものであった。
飛鳥は、厚紙性のストローを咥えながら、ふとそちらの光景を見つめる。
「食わないのか……。お前、死んでるんじゃないよな……」
数メートル先の闇の中で、その場にしゃがみ込んで、おそらくは野良の子猫に餌をやっている男がいる。
その低い声は、ぎりぎりで飛鳥の耳にまで届いていた。
「これ、嫌いなのか？ ……おい、猫……。食っていいんだ、お前に買ってきたんだから」
齋藤飛鳥は深い溜息をついて、ベンチから立ち上がった。
外灯の灯りから抜けるようにして、暗闇の中に入り込んでいく。
短く歩きながら、自分は何をしているのだろうかと、また溜息がでそうになった。
飛鳥は男と野良の子猫の前で立ち止まり、深い溜息をついた。
男が、不思議そうに、ふてぶてしい顔を飛鳥へと見上げさせた。
「あんたねえ……、どう見ても、死にかけてるでしょ？」飛鳥はじろりと男を見下ろして言った。
「え……。昼寝してるんじゃ……」
男は野良の子猫を見つめる。子猫は地面に横たわっていて、骨が毛皮に浮き出そうなほどにやせ細っており、確かに、呼吸をするのもやっとの状態にも見えた。
「今は夜だし、飢えて痩せこけてるじゃない。もう自分じゃ食べる事さえできないの……、なんで、すぐわからないの？」
「そう、か……。じゃあ、どうすれば」男は飛鳥の事を見上げる。
「動物病院へ行って」飛鳥はその顔から表情を無くして言った。「急いで」
「え？」
「この子を死なせたいの？」飛鳥は眉間を険しくさせた。
「……。いや、そう、か」男は飛鳥から、子猫へと視線を換えて、頷いた。「わかった」
男は、優しい所作で子猫を胸に抱き上げ、すくっと立ち上がった。飛鳥はアイアス・コーヒーのストローを咥(くわ)えて、男を見上げる。身長差は実に２０センチ以上あった。
男は、改めて飛鳥の方を見た。
「あんたも、ついてきて」男は不愛想にぼそぼそと言った。
「はあ？」飛鳥は大袈裟(おおげさ)に眉間(みけん)を顰(ひそ)める。「なんっで、私が……」
「この子を、死なせたくないんでしょ？」男は無表情で言った。
「だから、あんたが連れて行きなさいよ、私はこれでもやっと一息ついてるんだから……」
飛鳥はそう言ってから、視線を離さない男から、ぷいっと顔を背けて、肘をかかえて腕を組んだ。
「俺はいま金、持ってないし。スマホもない。タクシーにも乗れないし、動物病院もどこに在るかわからない」
「はあ～？」飛鳥は激しく顔をしかめる
「俺とあんたで連れて行こう。この子には、まだ生きるチャンスがある」男は、抱いている子猫を見つめて囁(ささや)いた。
「……、なんっで、こうなるかな～……」
「タクシー呼んで。ほら、早く」
飛鳥はぶつぶつと小言を呟(つぶや)きながら、バッグからスマートフォンを取り出した。すぐに付近の動物病院を検索してみる。
男は、愚痴を吐き捨てながら素早く作業する飛鳥を見て、その不愛想な顔を笑わせた。
「俺……。柚飼一哉(ゆずかいいちや)……」
「んん、ああ、齋藤です。あもしもしぃ？ あの……、死にそうな子猫がいるんですけど、……、はい。……ええ、あの、飢えていて、もう自分じゃ、食べられないみたいで……、今の時間……」
柚飼一哉は齋藤飛鳥の事をじっと見つめる――。小さな声で、柚飼一哉の胸から、子猫が「みゃぁ」と一つ鳴いた……。
「うん、生きたいよな……」柚飼一哉は笑わずに微笑んだ。
「はい、じゃあ。今からそちらに伺いますので……、はい、すぐに向かえます。深夜に、御迷惑おかけします、ありがとうございます」
齋藤飛鳥は、怒った顔でスマートフォンをバッグにしまった。
深夜の夜風はとても生暖かで、どこか湿気を孕(はら)んでいる。猛暑は最近になって顔を引っ込めたのだが、気温はまだ高い。夏はまだ終わっていなかった。
柚飼一哉は、飛鳥に微笑んだ。
「タクシーは？」
「すぐ来る」
「そう。ありがとうだって……」柚飼一哉は抱いている子猫を、あごを引いて、至近距離で見つめた。「ありがとうだってさ」
「はい？」飛鳥は僅かに耳を傾け、眼を細める。
「こいつがさ……」柚飼一哉は飛鳥に微笑んだ。
「……ふん」飛鳥はそっぷを向く。
「俺からも、ありがとう。命の恩人だな、あんた」
「齋藤ですけど……」飛鳥は、上目遣いで、つまらなそうに言った。
「下の、名前は？」無表情がきく。
「……。飛鳥」
「ありがとう、飛鳥」柚飼一哉は、よく響く低い声で言った。
「ふんっ、呼び捨てかよ……。あんたいくつよ？」
「二十五」
「誕生日は？」
「十二月」
「一個上か……」飛鳥は視線を泳がせて、腕を組んだ。
「ふう～ん、意外に一つだけか、年下なのは」柚飼一哉はコンクリートで固まっていそうな、変わらない表情で言った。「一個下に見えない」
「あ、何その言い方っ」
柚飼一哉はそう言って、視界に入った方角に振り返ると、森林公園の入り口付近に停車しようとしているタクシーに向かって、前置きも無く、躊躇(ちゅうちょ)なくすたすたと歩き始めた。
「ああ、待ちなさいよ！ お金、持ってないんでしょう？」飛鳥は慌てて歩き始める。
「ああ持ってない」柚飼一哉は振り返らずに背中で答える。
「じゃあ私がいなくちゃ乗れないじゃない」飛鳥は急ぎ脚で言う。柚飼一哉は歩くのが速かった。「ちょとっ、待ちなさいよっ」
「早くこいつ、連れていきたいんだ」
「ああ、そっか……」
「はっは、真面目だな、飛鳥ちゃん」
柚飼一哉は後ろを振り返って、薄い色の笑みを浮かべた。大きな風で、黒く長い前髪がさらさらと靡いていた。
吹き込んだ一陣の大きな風に、飛鳥はふいに顔を背けて、その長い黒髪を耳の後ろで押さえた。
「はあ～！ 馬鹿にしてんの？」
「いいや、どっちかというと、尊敬してる」柚飼一哉は、また前を向いて歩き始める。
「うん、わかりゃいい」飛鳥は軽い調子で1つ頷いて、また、その後ろ背中を追うように歩き始めた。