ザレゴトボイル
まだ薄暗い夜明け。シーツに体を絡めとられている雲雀の枕元。
ぼやけたような茶色いぼさぼさの髪を揺らして、抜けた笑いをする、青年は言った。
静かな、というより抑揚のない声。簡潔な内容。自分とはまるで無縁な感情を吐露する、と雲雀は思った。
今は、只でさえ梅雨の時期。鬱っとおしいったらない。ざわりと不快感が背骨を伝う。それでも。雲雀である彼は常のような行動、つまりトンファーを手に取ることをしなかった。
なぜだろう。本調子でないからだ。
すんなりでた答えに納得して、シーツに体が更に沈む。
そうだ。今は体調がすこぶる悪い。なにしろ昨夜、かなり血を抜かれてしまったようなので。
――寝ていただいた間に頂きました。ごめんなさい――
手に持った注射器をすまなさそうに厳かに、掲げた彼。
思い出すのも面倒な事情と偶然が重なって出会い、その時の微妙な状況と一番安易な選択肢を選んだ結果、
雲雀は、
昨日まで他人だった男とあばら小屋(不法住居)で、一夜どころか空が明ける瞬間を向かえてしまった。
そして。
――ごめんなさい。ずいぶん食事してなかったんです――
茶色いぼさぼさの彼は、驚くべきことに雲雀から多量の血液をあっさり奪い取り、
自身をさして吸血鬼と宣った。
「寂しいんですよ。本当たまに全部終わらせたくなるっていうか日浴びようかなあ、灰になろうかなあって。でも痛いのやなんですよ。だからどんなもんなんだろうとホラーもので吸血鬼が灰になったりするシーン見てみたんですがあれですね絶対杭はいやだなあと思いますあれじゃいくらなんでも自分が可哀想ですし」
自称吸血鬼はしゃべる。ひたすらしゃべる。最初は自身の身の上話。
世界史かなにかで聞いた地名を、聞いたような順番に所々織り混ぜてしゃべる。
血を際どいところまで抜かれ今にも意識がとびそうな人間の鼓膜に、容赦なく音を流し込む。
「だったら。いっそ生きるしかないのかなあって。ひとりはなんだっけ、ああそう鬱になるんです動物にもいましたよねひとりだと死んじゃうってまさに俺だなあ。ああまあ俺医学的には死んでるっぽいんですけどね実際どうなんでしょうね…と。
はい。雲雀さん口開けてくださいレバーですよー鉄分たっぷりですよー」
その身の上話があらかた消化したらしく、五分ほど前から自分の持つ厭世観と希死念慮をだらだらと思うままに、ああ。もう聞くに耐えない。
「ねえ」
「はい?」
「君に咬まれたらどうなるの」
「ああ…吸血鬼になるかってことですか?さあ…わかりません咬んだことないんで」
「なんで」
「あなた見ず知らずの人間に咬みつけます?俺は嫌ですよ」
妙に潔癖なことを言う。ただそれは雲雀も嫌悪するだろう事だったので理解できた。確かに。
「はい、あーん」
「ねえ」
「ん?水ですか」
「咬めば」
痺れる舌で、切って捨てる調子で、レバーの味が残る口で雲雀は言った。
何にもわかっていない顔をしている吸血鬼の胸ぐらを何とか掴み、唸った。彼が理解できるようにゆっくりと。「咬んだらいいだろ」
他の生き物の血液だけを主食とする彼は孤独らしい。素晴らしいことじゃあないか、と思う。心底、羨ましい。なのに
寂しいという。この生き物は。
理解出来ないが寂しいというなら、咬んでしまえばいいと思った。
試したらいい。知らないなら知ればいい。それで、うまくいったら、また咬んで仲間を増やしたらいいの、に。
ぽかんとだらしなく開けていた口を閉じて、彼はしばらく雲雀をみつめ先程のようにまたへらへら笑う。
「さては雲雀さん」
「なに」
「俺に惚れたな」
「殺すよ」
「いや、惚れたでしょ。嘘つかなくていい。いやあ長生きするといろいろあるなあ。何度目だっけかなあ男の子からの告白」
「気色の悪い。聞きたくないよ言うな」
「俺もです」
聞きたくねえなあ、そんなこと。
へらへら笑いの奥一瞬だけ火がはぜて閃いた。それに気をとられた雲雀は頬を撫でてくる手の対処に出遅れた。何故か息が詰まる。
「どうですか?」
「つめたい、離せ」
「でしょ。冷たいんですよ」
あっさりと手を引いて彼は笑う。笑って言う。
「…こんなに冷たいのばっか増やしてどうすんの。クーラー要らずになるんで温暖化防げるかもですが。…ね、あなたひょっとして吸血鬼になりたいの?」
言われて考えた。出会ってから一番有意義な質問、答えは
「悪くはないよ。退屈が少しは薄れそう」
「ならないでほしいなあ。というか断わる」
下を向いて今度は低く笑う。雲雀は眉を寄せた。べつに咬んでくれと頼んだ訳ではないので、断られる謂れはないが、いい思いはしない。そういった場合雲雀のとる行動はひとつだった。
「ふうん。じゃあせめて咬み殺させて」
貧弱でも頭が弱くても、化け物は化け物だろうから少しは楽しめる気がした。
戦おうよ、そんなに寂しいなら。
それはいっそ甘く誘う想いだった。
含まれたものを感じ取ったのか、下を向いていた視線をゆるゆる雲雀に戻し、彼は笑いではない形に目を細めた。光がむずがゆくて、まだまだ眠っていたい子供のような形だった。
その形の目のまま、ぽつり。
「愛してるから断わるよ」
「…は?」
「俺は、あなたを、生を愛してるんだ」
彼はただ言葉をこぼす。
「やっとわかったんだ。愛しい。命が生が愛しい。だから温かい血を求めるんだってわかった。わかったから、俺は断わる…愛してる。愛してるよ」
だから最後まで、貴方は人であってくれ
「…ざれごとを」
吐き捨てたその先で彼がまた笑った。
あの時彼は多分自分の人生のどの瞬間よりも
愛してると言ってくれたのだろう。それこそ魂の底から。