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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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夢幻空花 一、 此の世界の中で

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一、 此の世界の中で

 晩夏の高い蒼穹の下、私はまだ、夏の暑気がたっぷりと残った陽射しを浴び、碧い碧い蒼穹を見上げる。そこには白い月がまだ昇ってゐて、白い月は晩夏の遠い地平線に鬱勃と湧き立つ入道雲を見下ろしてゐた。地は陽射しで温められ、さうして自然の摂理として生まれる上昇気流が地面に心地よい風を吹かせ、私はその風に身を委ね、宮崎駿監督の初めての監督作品「未来少年コナン」の最終回に主人公の一人の少女ラナがアジサシとともに意識が飛翔するやうになんだかあの碧い蒼穹を飛翔してゐるやうな奇妙な感覚に囚はれる。その心地よさはいくら高所恐怖症の私でも気持ちがいいものであった。この自在感は、意識のみだから為せる業で、肉体は相も変はらず地面に佇立したままである。それでは意識は、肉体と違って自在を獲得したかといへば、決してそんなことはなく、唯の戯れに意識は飛翔して見せただけで、それは「未来少年コナン」といふAnimation(アニメーション)が見せたImage(イメージ)をなぞってゐるに過ぎぬのであった。つまり、それは私の手抜きともいへるのだ。他者が作ったImageに無断で乗っかってゐるだけで、其処には何の創造性もないからだ。だから、私は返って心地よかったに違ひない。何の負荷も私自身の思考にかけずに他者から借りたImageにただ乗りするだけで、意識が自在を恰も獲得したかのやうに敢へて勘違ひする誤謬の自在感を私は心ゆくまで愉しんでゐたのである。
 さうすると、もしかすると人生の醍醐味は誤謬にこそ潜んでゐるのかもしれぬといへる。誤謬することで私はどれほどの”自由”を愉しんできたことか。そもそも誤謬してゐるから気が楽で、仮に間違ってゐても誤謬故に端から間違ってゐるので気にする必要はなく、その気楽さが更に私を自由にさせ、つまり、心には重力からの解放が齎されるのであった。
――重力からの解放?
 確かに誤謬に夢中遊行(いうかう)すれば、心は重力から解放されるが、しかし、それは解放された振りに過ぎず、重重しい肉体は相変はらず重力に縛り付けられたまま地べたに佇立してゐるままである。意識のみが仮象の中で重力の軛から解き放たれ、仮象の自在を知るのである。それは無重量の中の肉体の有様とは似ても似つかず、例へば自由落下するJumbo(ジャンボ) Jet(ジェット)機の中の無重量室の中では肉体は無重量に慣れるまで自由が利かずにふわふわと浮かんで不自由そのものだが、仮象の自在は将に自在そのもので、其処で仮象される私はちゃんと肉体らしき仮象を保持しながらの自在なのである。それが成り立つのはそもそもが誤謬だからに外ならぬ。
 それでは仮象とはそもそもが誤謬なのであらうか。或ひはさうかもしれぬが、仮象であっても現実の予言的な側面があり、強ち仮象だからと言って、誤謬とは限らないのもまた事実である。これはむしろ当然のことであり、くどくどと述べることではないのであるが、事、自由、若しくは自在に関すれば、それは誤謬の仮象であればこそ自由、若しくは自在が満喫できるのである。それはこんな風な具合である。恰も自由、若しくは自在は極限値が存在する無限級数の如くに振る舞ひ、その極限値を求める時にひょいと飛び越えてはならぬ閾を、つまり、それは無限なのであるが、その無限へと飛び移って極限値になるやうにして、自由、若しくは自在に事象は相転移する如く変化するのである。現実はそもそもが不合理で、不自由極まりないものである。それを掻い潜って生あるものは存在するのであるが、物理的に存在は現実に束縛されてゐるのである。哲学者は、究極的に存在は時間に束縛されてゐるといってゐるものもゐるが、個人的にはそれはさうかもしれぬが、しかし、時間とはなんぞや、と問ふてみた時、その答へは曖昧模糊とした答へしか得られぬのが関の山である。とはいへ、”時間は流れる”のだ。流れがあれば其処には多分、カルマン渦が発生する筈で、その一つの代表的なものがもしかすると渦巻き銀河なのかもしれぬ。これも誤謬の仮象の一つに過ぎぬが、時間を表象するとなれば、それは誤謬の仮象を駆使する外ないのである。別の言ひ方をすれば、例へば時間を表象するには超越論的観念論の問題となり、確かに時間は此の世に存在するが、それを表象するには誤謬の仮象を用ゐて観念を曲芸的にでっち上げる外なく、その糸口としての自然現象のカルマン渦がその一つとして私は看做したのである。
 時間のカルマン渦が仮に存在するとしたなれば、その表象として渦巻き銀河が考へられるといったが、もっと身近な存在に台風があり、もっと身近には不規則に細胞に折り畳まれて収納されてゐる二重螺旋のGenome(ゲノム)がある。渦に円運動といふ反復運動といふ視点を持ち込み、その視点で渦を語れば螺旋と渦は視点が違ふだけの同じ現象であるといふ結果に至るのである。そのことを考慮に入れて尚更極端なことをいへば、質料(ヒレー)に形相(エイドス)があれば、その形相が既に時間を表象してゐるといへるのである。その根拠は何かといふと、時間とは既に空間とは切っても切れぬことは言はずもがなであるが、時間だけを考へるのは、既に時代にそぐはず、時空間として此の世は概して四次元多様体として考えるのが、先づ、基本である。その上で、此の世は十次元とか超弦理論から導かれるのであるが、超弦理論が正しいとは限らないので、それもまた、誤謬の仮象かもしれぬのである。更にいへば、量子重力論といふものがあり、其処には出来事を表すのに時間の因子はなく、つまり、諸行無常なるものは、時間の因子がない中での絶えざる変化であり、それは湯水が湧くやうに状態が湧いてくるやうに状態が湧いてくる、つまり、時間因子から自由な変容があるのみなのである。
 話は大分脱線してしまったが、量子重力理論はひとまず置くとして、形相、即ち、時間と看做せば、時間は流れることからそれに応じたカルマン渦の発生を予想したのであるが、時空といふものを持ち出せば、形相は既にそれが時間を表象してゐるのである。つまり、形相のない不可視な時間は、存在するとはいへ、それは大昔から何らその認識の仕方は変はってをらず、直感で認識する外ないのである。さうであることを知りつつも、それを脇に置いて、例へば、極端なことをいへば、この時空に存在するものは全て形相があるものとしてしまへば、形相がないものは、これまた極端なことをいへば時間に縛られながらも、一方で、在り来たりの時間を超越した存在といふことにもなると考へてみる。そんな存在に千変万化する幽霊が当て嵌まると看做せば、幽霊といふ存在はある意味時空からその存在の拘束を解かれた存在で神出鬼没に此の世に出現することになる。そして、個人的には此の世に幽霊が存在した方が断然此の世は面白いと思ってゐる。これもまた、誤謬の仮象が為せる業の一つであり、誤謬の仮象に夢中遊行する楽しみは、涯が尽きないのである。