幕引き
清史郎が自分のことで思い悩んでいたことは、正直驚いた。ただ、彼はとても純粋だったし彼の兄ともうまくいっていないようだったから、自分押しに対する衝撃はこちらの想像よりもずっと大きかったのかもしれない。己の行動が清史郎だけでなく、春人や彼らの友人たち、槙原をも巻きこんでしまったと考えると、とても申し訳なく思う。……津久居賢太郎、あの男は別として。
清史郎も春人も、槙原も笑っている。大切な彼らが幸せなら、もう心残りはない。あとはこのまま消えるだけだ。
そのはずだった、のに。
割れんばかりの拍手の音に、鉄平は目を開いた。ゆっくりと押しあげたまぶたの隙間から、目が眩むほどの光と、てらてらと光を跳ね返す板張りの床が見えた。熱を帯びた光を頬に受けながら、鉄平は目を凝らす。自分が立つ場とは対照的な闇の中に、ずいぶんと低い位置から空間の奥まで段々と続く座席と、階段状の通路が見える。
どうやらここは劇場で、自分は今、舞台の上に立っているようだ。ついさっきまで幽麗棟にいたはずなのに、どうして。夢でも見ているのか。もう体もないのに?
混乱する頭で状況を理解しようと辺りを見回す。ずらりと並んだシートの中央、劇場の中心あたりで、ふと目が止まった。よく知っている姿が、ポツンとひとり。
「……先生?」
鉄平の呟きは聞こえなかったのか、槙原は座ったまま反応しない。二人しかしないはずの空間で、拍手の音だけがやけに大きく響く。
――自然と体が動いた。鉄平は両腕を広げ、悠々と深く頭を下げた。まるで、本物の舞台俳優がそうするかのように。
今、この瞬間だけは、鉄平はひとりの役者だった。大学進学と役者の夢との間で揺れ、薬物に溺れた挙句に恩師を刺してしまった、愚か者の幕引きだ。憎悪と不安と後悔の物語は、最悪の形で幕を閉じる。
それでも。
「先生! ありがとう!」
顔を上げ、拍手の音に負けまいと、強く叫んだ。こちらを見る槙原が、わずかに目を見開いたように見えた。
「こんなどうしようもない奴を探してくれて、ありがとう! そして、刺してしまってごめんなさい! 先生に会って謝れなかったことも、本当にごめんなさい!」
あふれてしまった涙が視界をにじませ、槙原の姿がぼやけていく。それでも、叫んだ。
「本当にありがとう! 俺はもう行ってしまうけど、先生はこの先もどうか幸せに生きて! 清史郎たちとも仲良くな!」
震える口元をどうにか結んで笑顔を作り、鉄平はもう一度、深く、深く頭を下げた。もう涙か鼻水かわからない雫が、ボタボタと、舞台の床に小さな水溜まりを作った。
拍手の音がより一層高くなる。照明が、ひとつ、またひとつと落とされていく。次第に暗くなる視界の中で、拍手の音だけがいつまでも、いつまでも続いた。
頬が何か冷たいものに触れた感覚で、槙原は目が覚めた。眼鏡をかけず、ぼやけた視界のまま手探りで原因を探す。
「うわ」枕が、信じられないほど濡れていた。カバーをはがして絞ったなら、水が滴るのではないかと思うほどに。心なしか目が腫れているような感覚もある。眠っている間に大泣きしたのだろう。原因は明白だ。
「古川君……」
大切な人の夢を見た。槙原がついぞ再会できなかった青年が、役者として舞台に立っていた。胸をはり、体いっぱいにスポットライトを浴びた姿は、槙原が知る彼よりもいきいきとして見えた。その姿が幻でなかったなら、どんなによかっただろう。
まぶたを閉じると、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの笑顔が浮かぶ。「幸せに」と、そう言われたような気がする。
「……僕こそ、助けてあげられなくてごめんね。君の分まで、精一杯生きるよ」
かすれた声で呟く。ここにはいない青年が、にっこりと笑った。何故だか、そんな気がした。