非日常解放戦線
あの日どうしてなんの躊躇いもなく取ってしまったのか。
視線の先にあるデジタル時計が、止まることなく秒単位で時を刻んでいる。
背中に自分じゃない人間の体温と、ほんのすこしの重みを感じながら、僕はぼんやりとそれを眺めた。手元で開かれた文庫本はさっきからしばらく同じ場所で足踏みしたまま。少し身じろぎすると重力にしたがって何枚かページが逆戻りした。
「目が覚めたの?」
背後から聞こえていた規則的な音が止まって、かわりに楽しげな声が飛んでくる。僕と背中合わせで碁盤だか将棋盤だかに向かっている臨也さんは、相変わらずそこに将棋やらオセロやらチェスやら、いろんな種類の駒を共存させては、誰にもわからないルールに則って一人でゲームを進めていた。考えながらも規則的に駒を打っていく音は不思議とリズミカルで、次第に子守唄のように僕をまどろみに引き寄せる。体重をかけてしまっていたのは、どうやら僕の方みたいだ。
「ね、寝てたわけじゃないですから」
「寝てた子はみんなそう言うんだよ」
「ち、ちが…、ほんとに…っ」
「へえ?じゃあ何?」
「か、考えごと、です」
恥ずかしくなって言い訳したけれど、楽しそうに笑ってるだろうことは声を殺していても背中の揺れでわかる。会話の合間にも気づけば駒を打つ音はつづいていて、僕はそのときになってようやく臨也さんにからかわれているんだと気づいた。かなり今更だったけど。
だから、それならいいかと思ったのには間違いない。ゲームの片手間に聞いているのなら、あまり突っ込まれることもないだろうと、話を続けることにした。開かれたままの本が退屈そうに僕の膝から滑り落ちるのを片手でおさえて閉じると、
「日常と非日常の境界ってなんなのかなって」
ぽつりと切り出す。臨也さんが駒を打つ音が、止まった。
「…なんで、そう思うの」
後ろから聞こえる声に、いっさいの抑揚がなくなる。感情を押し殺したような声音に違和感を感じつつも、逆にそれに気圧されて続けざるを得なかった。
「…僕が池袋に越してきたとき、臨也さん言いましたよね。東京での生活なんて、三日で日常に変わるって。その意味はよくわかりました。あの日臨也さんの手をとってここへ来て、僕にとってここでの生活も、同じように日常になった筈だった。それなのに、」
そこから先は、何故か声にならなかった。瞬時にあの日の残像がよみがえる。戸惑う僕に迷いなくまっすぐにその手を差し出し、臨也さんは言ったんだ。
『俺とおいで。飽きることのないほどの非日常を見せてあげる』
その手をとった理由が、純粋に非日常に惹かれたからなのか、臨也さんの巧みな話術のせいなのかは覚えてない。それでもあの日僕はこの手をとって、この人の傍にいる道を選んだ。なにより求めていたはずのたくさんの非日常は瞬く間に消え失せ、一番の非日常であるはずのこの人自身すら、僕にとっては一番身近な日常に変わった。
「関わらない方がいい人物である折原臨也」も、「新宿の情報屋である折原臨也」も、僕にとっては「ただの恋人の折原臨也」に変わってしまった。
なのに、どうしてだろう。落胆も空虚感も、焦がれていたものを失った寂しさも、何も感じなかったんだ。あるのはただ変わらず、この他人の体温の妙な心地よさだけで。
僕が焦がれた非日常は、もうここにはない。なくなってしまった。胸躍るようなドキドキも、危険と隣り合わせのスリルも、当たり前のものになってしまって、それでもこの場所を、彼の傍を、否定する理由にはならないんだ。そんな自分自身に一番驚いていたりする。
池袋という街は何も、変わっちゃいない。こうして新宿に移り住んでもそれはわかることなのに。僕がどう思うか、それひとつで、世界はがらりと顔色を変える。
非日常はたぶんいまも、形を変えずにそこにある。変わったのはたぶん、僕の方。あれほど憧れた非日常に対して、僕はもう興味を失ってしまったんだろうか?
「『非日常が日常に変わっちゃってガッカリ』?」
まるで僕の悩みを知っていたかのように、臨也さんはくるりと振り返るとそのまま僕の両頬を包み込んで顔をのぞき込む。さっきの声からは想像できないほど、いつも通りの。表情から感情を読み取ることができない、人当たりのいい笑顔だった。
「…いえ、そういうわけじゃ…」
答えに言い淀んで俯くと、それを許さないというようにすっと顎を持ち上げられる。やさしいけれど、はっきりした動作。ちゃんと答えられないのは、臨也さんが言ったことが当たっているからなのかな。もしかするとほんとうは、非日常を失った落胆もどこかで感じてて、でもそれを自分で認識しなかったのは多分、
この場所が、思っていた以上に居心地良かったから。僕にとってこの最たる非日常が日常に変わったことを、それほど身近な存在になったことを、嬉しく思う気持ちもあるから。
「臨也さんは?…臨也さんはどうして僕を選んだんです?後悔…しなかったんですか」
「ん?」
逆に質問を返された臨也さんは、ちょっと面食らったように驚いていたけど、すぐにふっと苦笑して、そうだね、と答えの前に一呼吸入れた。それが後悔という言葉に直結して落ち込みそうになったその瞬間、「一種の賭けみたいなもんだけど」と続けられて、
「俺は基本的にすべての人間を等しく愛してる。でもその中で例外が二人。一人は殺したいほど大嫌いなシズちゃん。もう一人、それとまったく逆の位置にいるのが帝人君。…っていう答えでどう?」
「ど…っ、」
どうっていわれても答えに詰まる。ここで疑問形にするところが臨也さんのたちの悪さだと思うんだけど、静雄さんに向ける感情と正反対だといわれればそれはつまり好きってことで、僕はそれだけ特別に扱われてる、ってことに。
「…非日常が日常になっちゃったって帝人君は言ったけどね。もしかしたら非日常のほうが逃げていったのかもしれないよ?あんなのより俺のほうが、帝人君をすきだからね」
自分がその非日常の最たる例だってこと、わかってないのかなあ。まるで他人事のようにそう思ったりもしたけど、そう考えれば辻褄があってしまうのも事実。身体がいくらあっても足りなそうな、その争いに終止符を打ったのはやっぱり、
「俺の勝ちってことだね」と何故か誇らしげに笑う、非日常の塊のような恋人の一言だった。