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雀百まで踊りを忘れず

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動物のなかで最も運動能力に優れているのが鳥類だという一文を見たとき、沢田は何の苦もなくおっかない危ない、たまに可愛いところのあるうるわしい先輩を思い出した。

 目をしばたく。将来の右腕が見つめられると頬を燃やす瞳も今は半眼に近い。汗がこめかみを伝う。そう今は夏。

 沢田が一人で自室に籠城しているのはこの時期の学生には多かれ少なかれやってくるレポートとの格闘を不本意ながら了承したからだ。その結果、テーブルと言わず床と言わず紙切れが降り積もり所々開いてもいない本が憮然として覗いている。
 普段の散らかり具合から見ればまだましな方なのだがやけに視界を刺激され苛立つ。これはうだつのあがらない学生共通の症状であるかもしれなかった。



 また一筋汗がこめかみを伝う感触にげんなりする。エアコンを入れたくとも自室にはない。先程気をきかせた奈々が扇風機をセットしてくれたのだが、つい30分前は氷を浮かべて涼しげだったグラスも既に水滴が乾き始めている、のは気のせいじゃない。これはもはや熱風製造機だ…


 意識を散らしながらパソコン(未だにマウスの中にボールが入っている)のうっすら黄ばんだ画面に表示した、学部と学籍番号、氏名だけを打ち込んだワードを閉じる。敵前逃亡?戦略的かつ一時的な撤退だ、目標は単位を極限まで少なく設定した留年なし資格取得なしの無事卒業なのだ。因みに少なくしたのは14の時からの家庭教師である伊達男の個人レッスン(スパルタ)を組み込むためである。こうでもしなければ自分の睡眠時間は分単位になってしまう。そんじょそこらに転がっているチャラいキャンパスライフをエンジョイしているのではない断じて。


 沢田は一度理不尽で埋め尽くされた記憶を脳から叩きだし手元を見る。レポート内容に合致した資料だと見込んだが期待外れ、と斜め読みで済ませようとした文献だった。レポートにはそぐわなかったが内容としては好きかもしれない。なにやら脳に関しての文献というカテゴライズしかでてこないのだが。
汗に湿って少しおさまりがよくなった頭を後ろに倒す。右腕が見たら褒め称える柔軟な動作で、ゆっくりと。そういう動きがいつの間にかできるようになった。
 ヒヤリとする床の感覚に背中をおもいっきりこすりつけため息をはく。


 そうか。ぼんやり思う。鳥は運動能力があるだけでなく記憶力が半端なくいいらしい。写真で撮ったように正確に覚えしかも一回覚えた記憶はなかなか消えない。ああ、本当になんだかあの人らしいなあ。

 羨ましいなあ。と半分意識を無意識にとかしつつ思う。
 絶対に破損しないかけない記憶が持てるとしたら。どんなに下らなくとも自分は間違いなくこの並盛にいる日々を選びとる。できれば全部と言いたいところだけれど、できれば楽しいことだけと言いたいところだけれど、自分は物覚えが悪い。何事も人の何倍もかかる。だから1日だけでも、今日、なんの意味もないこの日でも構わない。覚えておこう。


 なんの意味もないこの日でも、これから訪れ自分を巻き込んでいくだろう未来の、一筋の光明になる確信があった。


 欠伸をして眼を閉じた。右腕がいたらぎこちない動作で体にちょうどよいタオルケットをかけただろう。彼はいないのでそのまま沢田はすとんと眠りにつく。あとで部屋を掃除しよう…








 それから数年経ち、沢田はエアコンの効いた部屋にいる。装飾が部屋の機能性と建物の建築美を損なわないように施された美しい部屋だ。置かれている書籍は全て横文字。東洋の一部の地域でしか通じない言語などこの国には存在しない。
 沢田は、数年前彼が、忘れないでいようとした日を、当然のことながら覚えていない。やたらと豪奢な窓枠に凭れ、暗い色調のそとを眺めるうちに、微かに残っていた記憶がふと彼の口をノックした。

「鳥は絶対に、忘れない」
「何を突然」

 響いた声は美しい。そして沢田に涼しく美しい快適な自室にいるのは自分だけではないことを思い出させた。沢田は、忘れてしまった夏の日とは違い、ひとりではなかった。部屋以上に涼しげで美しい男と二人きりだった。涼しいというより真冬の月さえ凍えさす冷気と美しい刀の危うさを孕む男。彼には鳥の名前がついていた。


 今は夜明け。私的な部屋で明け方、寝台の上にかつての先輩が全裸でシーツに埋もれている。因みに同性。

 そこまでだったらあり得るかもしれない。世の中何しろ不思議にみちている。二歳の赤ん坊に家庭教師をされた14歳の日本の少年がイタリアのマフィアのボスになって頭から炎を生やします。これが事実なんだから大抵のことはあり得ると思う自分だ。それでも美しい全裸の男の名前が雲雀恭弥。これは奇蹟というしかない。でなかったら狂気の沙汰だ。
 苦笑を、目の前の男にならって咬み、殺す。

「記憶が曖昧にならないって素晴らしくないですか?」
「下等だからだろ」
 
 さしたる感銘を受けず男は欠伸混じりに言う。黒豹のような動作が少し微笑ましい。

 下等な動物ほど記憶は正確だ。言い換えれば融通が利かない。そういう記憶は応用が利かない。よって基本役立たない。
 そのことは今の沢田にはわかっていた。それは知識からだったが鋭さを増した直感で感じ取っていたことかもしれない。

 人間の記憶は曖昧だ。でないとダメなのだ。もし記憶が完璧だったら、次にこの人に、雲雀恭弥に会ったとき彼だとわからなくなるかもしれない。着ている服、髪型の僅かな差違で脳が別人と判断してしまうかもしれないのだ。たとえそうなったとしても忘れられない髪形と、目の色をした人物を知っているので本当か?と思ってしまうのだが。
 

 脳は、完全に覚えるのでも完全に忘れるのでもなく、顔の、その人の不変の共通項を記憶して、ゆっくりと判断していく。
 
 そう。ゆっくりと。表面の浅い情報に振り回されないようにゆっくりと遅く脳は覚えていく。かつて覚えが悪すぎて散々居残りさせられたのはある意味仕方なかったのか、と思ってみる。
 ああ、でも、それにしても。

 沢田は笑った。笑うしかなかった。

 いっそ今すぐ目の前の男が、鳥のように完璧な記憶しかもてなくなってしまえば、何の苦もなくあっさりとこの関係らしきものを終わらせられるのではないか、という気持ちの裏に趣味の悪さが隠れていたことを知っていたからだ。


おじいさんになってもこの目の前の人に、どこにいても見つけてもらいたいし見つけたいし会いたいのだ。





たとえ骨さえ通り越した姿になっても
作品名:雀百まで踊りを忘れず 作家名:夕凪