苦いキス
無造作に置かれた黒光りする塊に、暫くの間、雲雀の視線は奪われていた。
空調が程好く効いた淡い色調でまとめられた部屋の中で、それは異質に浮かび上がる。
ぼんやりと見つめる雲雀の視線に気付き、ディーノは冗談めかした調子で詫びの言葉を口にした。
「ごめん、 ムードぶち壊しだな」
けれど雲雀の耳にディーノの言葉は届いているのか否か反応はない代わりに、まるで雲雀の沈黙を誤魔化すように、
ディーノの所持する携帯電話が、サイドテーブルの上で慌しく震え出した。
二人で会うときは、日常を忘れる。
お互いの暗黙の了解でもあり、気の利くディーノの部下たちも、それほど野暮ではないはずだったが、
雲雀と会ってることを知っている上での呼び出しに、ディーノも、今ばかりは携帯電話を手に取った。
ベッドルームから姿を消したディーノの背中を目で追うことすらせず、ただ雲雀の視線は、尚も、見慣れぬ塊に向けられていた。
テレビや、映画でしか見たことのない、拳銃。
拳銃の種類など、雲雀にとって興味もなければ、知識さえない。
しかしディーノにとっては日常品と何ら代わり無いものなのだと、雲雀は改めて二人のいる世界の距離を遠いと思った。
手を伸ばせば、きっと、すぐそこにある。
けれど、ディーノは、多分、それを望んではいない。
自分を甘やかすことしかしない相手の優しさが腹立たしく、自分の存在意義さえ見失いそうな気がして、雲雀は忌々しげに顔を歪めた。
暫らく経って戻ってきたディーノは、未だ雲雀の関心が自分が何気なく置いたものにあることに少しの焦りを感じる。
「雲雀?」
「ねえ、これって、日本に持ち込めるんだ?」
やっと口の開いた恋人の冷めた口調に、ディーノはなぜか安堵の表情を浮かべる。
「んー、そこは、色々と」
「へえ…。もっと厳ついのかと思ったけど、そうでもないんだね」
「多分、フルオートだからじゃないのかな。俺、実は命中させるの苦手だから」
知ってるよ、雲雀は喉元まで出かけた言葉を、飲み込む。
意外に繊細で、傷付きやすい相手を思い遣るなど、少し前の雲雀なら、考えないことだった。
「武器は、鞭だけじゃないんだ」
「俺は本当は持ちたくないんだけど…。念のためだって、下がうるさいから…」
「弾って、抜けるの?」
さっきから、目の前にある拳銃の話しかしない雲雀の心情など、ディーノには皆目、見当もつかなかった。
普段、何事にもあまり執着の見せない雲雀が、こんなにも一つのものに対して興味を示すなど珍しくもあったが、その対象が対象なだけに、ディーノの表情が微かに曇る。
自分は、いつでも死と隣り合わせだと、それなりの覚悟は、ディーノの中に常にあった。
自分の手が汚れることも、大事なものを守るためなら厭わない。
けれど、大事な人の手が、見知らぬ人間の血で汚れることは、あまりにも不快で、あまりにも悲しい。
いずれ、この世界に否が応でも足を踏み入れることになるだろう雲雀の気持ちが、、そんな未来を然程悪く思っていない事を知ったとき、ディーノの胸がざわめいたことを思い出す。
甘やかして、耳元で愛を囁いて、自分がいなければ何も出来ないくらいに、骨抜きにして。
ディーノの奥底に潜む欲望は、たまに、自身の心に陰を落とす。
「…抜けるよ」
暫しの沈黙の後、ディーノは徐に拳銃を手に取ると、グリップ内に装填されたマガジンを抜き取る。
鈍い色に光る弾を見つめる雲雀の瞳が、気のせいか、僅かに見開かれたように思えたディーノは、
「もういいだろ?こんな無粋なもの、出してごめん。もう、仕舞うから」
なるべく穏やかな口調に努めながら、早々に雲雀の手から弾を取り上げた。
ディーノの思惑を察知した雲雀の口元が、いつものように、不敵な笑みを形作る。
「一個、もらえないかな」
雲雀の、白い肌を縁取る黒髪が揺れた。
「どうするんだ?」
ゆっくりと問うディーノの表情が、やや強張っているのを見て、雲雀は少しだけ優越感に浸る。
自分に甘い相手。
自分を駄目にしてしまう相手。
「お守りにするよ」
「お守り?こんな物騒なものを?」
「もし、あんたが」
雲雀はそこで言葉を区切ると、ゆっくりと瞼を伏せる。
ディーノは、頬に落ちた影から、雲雀の睫の長さを改めて知った。
「いつか心変わりをしたら、それで、僕を殺してよ」
静寂が、ディーノの首を、ゆっくりと締め付けていく。
息苦しさは、ディーノの言葉を詰まらせる。
雲雀もまたそれきり、黙ったままだった。
「心変わりなんて」
ディーノの低い声が、雲雀の胸に響く。
次に、ディーノの体温が、雲雀のからだを強く縛った。
「そんなこと言うな」
心変わりなどしない、そう明言しないのは、ディーノの狡さか、それとも優しさか。
雲雀の手は、行き場をなくしたように、ディーノの背中の上を彷徨う。
いつから、未来に不安を感じるようになったのか。
雲雀は、自分にとって居心地の好い場所となっていたディーノの胸の中で、そんな事をぼんやりと思った。
二人で堕ちていくなら、それもいいと思えるのに、相手は、その選択肢を、きっと選ばない。
守られる存在になど、なりたくない。
相手を盾にしてまで、生き延びたとしても、その先にあるのは、きっと虚無感。
それは、相手に振り向いてもらえなくなった時も、同様だ。
弱くなるばかりの自分。
それを許してばかりの相手。
刹那に交わしたキスを、初めて、苦いと思った。