十年前の貴方へ
だけどせめて何かを残したくて。
手紙なんて大層なものじゃなく、もっと儚いものでいい…
金曜日、午後三時。
この時間は勤務中で、携帯の電源は切ってある筈だ。
発信履歴の一番上の名前を選択し、通話ボタンを押す。
数度のコール音。
それがプツリと切れ、聞き慣れた電子音声が流れる、筈が、
『もしもし?』
「…!」
電話口から静かな男の声が聞こえた。
一瞬、本人が出たのかとも思ったが、若干声色が違う。
予想外の応答に驚いた俺は、慌てて電話を切ろうとした。
「あ、の、間違えましたっ!すみませ…」
『あ、いえ。恐らく間違えてないと思いますよ。私、この携帯さっき拾ったんです。』
「…そうなんですか。」
あのいつも透かした男が携帯を忘れるなんていい笑い種だが、今は何もこんな時に、と思わずにはいられない。
『あの、この携帯どうしましょう?どこかでお渡ししますか?』
「いえ、俺はちょっとこれから出かけるので…交番にでも届けていただければありがたいです。」
電話の向こうで、そうですか、と呟く声が聞こえた。
「それじゃ、申し訳ありませんが、よろしくお願いします。」
そう言って電話を切ろうと耳から離しかけた時、あの、と呼び止められる。
「何でしょう?」
『これからどちらに?』
「えーっと、ちょっと海外へ…」
『お仕事で?』
「まあ、そんなところです。」
変なことを聞くな、と思いつつ、どうせもう関わることもないだろうと、正直に答える。
『それじゃあ、この方とはお仕事の話があったのではないですか?やはりお届けした方が…』
「あ、いえ…こいつは親戚、なんで…お気になさらず。ただ、ちょっと伝えたいことがあったのですが…きっと縁がなかったんですよ。気にしないで下さい。」
『そうですか…。あの、もし差し支えなければどんなお話なのか伺っても?』
「え?」
『いえ、なんとなく気になったもので…ほら、途中まで聞いた話をやめられちゃうと何だか気になるじゃないですか。』
本当に変な奴だ、と思ったが、どうせ他人だし今更気にすることもないか、と俺は口を開いた。
「実は俺、誰にも言ってないんですよ、海外へ行くこと。本当は黙って出て行くつもりだったんですが…こいつ、には、言っておこうと思ったんです…けど…きっと甘えるな、ってことなんですよね。俺、何を考えているんだか…」
『いや、いいんじゃないですか。ひょっとして貴方、今も迷っているんでしょう?』
「……。迷っているというか…怖いんだと思います。こいつにも見捨てられてしまうことが…。どうして今更そんな事を思うんだか…俺、今までずっと独りでいたっていうのに…」
はは、と自嘲気味な笑いが漏れたのは、そんな事を考えているからなのか、他人にそんな話をしているからなのか、自分でも良くわからない。
「すみません。見ず知らずの方に、こんな話してしまって。でも、聞いていただいて少しすっきりしました。携帯、申し訳ありませんがよろしくお願いします。では…」
『大丈夫ですよ。』
「え?」
耳から離した携帯から微かに漏れる音声。
『黙って出て行ったとしても、その人は絶対に貴方の事を待っていますよ。だから、全てが済んだらちゃんと戻ってあげて下さい。貴方ならきっとでき…』
唐突に音声が乱れ、最後の言葉はノイズの波に消えた。
俺は、虚しく響く電子音を聞きながら、暫くその場に立ち尽くした―――
波打つ床板の上に腰掛け、ぼんやりと夕暮れ時の空を眺める。
視界の片隅に勢い良く湯が噴き出している光景は、惨事の名残の筈なのに何故か滑稽だ。
隣に置いたグラスにビールを注ごうとしたが、もう空らしい。傾けても一向に何も出ない瓶に溜息を吐くと、ひょいと別の瓶が差し出された。
「あんまり飲みすぎるなよ。」
「わかってるよ。」
瓶を置いて、ごく自然に隣に腰を下ろす男。
何か言ってくるかと身構えるが、一向に何もない。
沈黙に耐えかね、何気なく呟く。
「俺、この家出て行く時さ、変な事があったんだよ。」
「ん。」
「本当は、お前にだけは言って出て行こうと思ってたんだけどさ、って言っても今更言い訳にしか聞こえないだろうけど。お前に電話したら知らない奴が出てさ、きっと大丈夫だから行けって言われて…それで行っちまう俺も俺だけど…」
「黙って出て行っても、その人は絶対に待っている。だから、全てが済んだらちゃんと戻ってこい。」
「…?」
「ちゃんと守ってくれたんだな、お前ならできると思ったよ。」
「え?」
「おかえり、侘助。」